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史 跡
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隆光大僧正の墓 所在地:
旧通法寺跡:羽曳野市通法寺
旧超昇寺跡:奈良市二条町
通法寺跡の近く、源頼信の墓の傍に通法寺歴代の僧の墓が並んでいるが、その一角に隆光大僧正の墓がある。
 隆光大僧正は1649年(慶安2年)大和国超昇寺郷(現在の奈良市二条町)で生まれ、長谷寺等で学んだ後、江戸へ出て関東新義真言宗本山の「護持院」を創設した。 5代将軍徳川綱吉の生母桂昌院の寵愛を受け、綱吉の護持僧となった。
 元禄年間、通法寺再興の時、多田義直の上表の際に、柳沢吉保と共に尽力している。また、桂昌院の援助で大和の社寺修復に尽くし、特に1567年 (永禄10年)松永久秀が焼き、142年間雨ざらしの大仏殿再建に尽力しており、地元の河内や大和では評判は良い。
 悪法として世人の不満を買った『生類憐みの令』は彼の発案だとされている。そのため、綱吉の死後はお役御免となり、かって再興に尽力した通法寺の住職に左遷されている。
 最晩年の10数年は生まれ故郷に帰り、超昇寺で遇し、1724年(享保9年)に没している。
 ここ通法寺跡にある分骨墓、奈良の元超昇寺の墓地にある本墓ともに、非常に小さな墓で、5代将軍の護持僧として権力を振るった人の墓にしては、栄華の裏返しとはいえ哀れすぎる。

[参考資料] 『現地説明板:河内ふるさとの道』 羽曳野市
         『現地説明板:隆光大僧正の墓石』 奈良市

通法寺跡の近くにある隆光大僧正の墓 
隆光大僧正の墓-1 隆光大僧正の墓は痛みが激しく、割れが目立つ。保護の為か、針金で縛ってある。
隆光は後に奈良・超昇寺で亡くなった折、当地の人々がお世話になったことから、分骨墓として建立したと伝わる。

奈良市二条町 旧超昇寺跡にある隆光大僧正の墓
隆光大僧正顕彰碑 隆光大僧正の墓
私の住んでいるニュータウンから車で5分ほど走った、平城宮址(奈良市二条町)のはずれに隆光大僧正の本墓(右側)がある。この地は隆光が最晩年を過ごした超昇寺(明治初年に廃寺)の跡地で、この超昇寺で1724年(享保9年)に没している。墓は自然石で表面の文字は風化のため、ほとんど読みとることが出来ない。

史跡-100/TTL-405

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