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所在地:大阪市住吉区帝塚山西1丁目
最寄駅:南海高野線「帝塚山」下車、西へ約100M |
帝塚山は大阪では築造当初の姿をほぼ伝え、墳丘は2段築成の前方後円墳である。現地の案内板によると、[前方部を西南に向ける墳丘長約120mあり、後円部直径57m、高さ約10m、前方部幅50m、高さ約8m]の古墳であったようで、部分的(20〜30m)に周濠の痕跡が認められるとのことである。
その造営年代は出土品の年代測定から4世紀末〜5世紀初めと推定されている。また、この古墳は大和朝廷に高官として仕え、この付近に居宅があった豪族大伴金村の墓という説もある。
場所は住吉大社から程近いところに有り、摂津八十八ヶ所霊場の「荘厳浄土寺」と「西之坊」を参拝した帰りに訪れたが、外周は柵で囲まれ中に入ることが出来ず、住宅地を縫って古墳の周りを一回りしたにとどまった。
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[参考資料] 『現地案内板』 (財)住吉村常盤会 |
標高:19.8M
訪問日:2004年3月13日(登頂できず) |
25000分の1地形図名:[大阪東南部]
経緯:北緯34度37分16秒、東経135度29分47秒 |
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南海高野線「帝塚山」駅を西へ約1分、山の全景が飛び込んでくる。 |
登山口は無常にも鍵がかかっており、中に入ることが出来ない。しかし、山頂に向かう道はかなり踏み慣らされた跡があり、全く人の出入りを禁止している訳ではなさそうである。一般の人が中に入るにはどのような手続きが要るのだろうか? |
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柵の外から山頂を望む。山頂には大きな石碑が建てられているが、これは入り口の案内板によると1898年(明治31年)当地で行われた陸軍の特別大演習を明治天皇がここから統監されたことを記念して地元住吉村が建立したものである |
入り口の向かって右の奥の方に「史跡帝塚山古墳」の石碑とそれの解説板があるが、中に入れない現状では、詳細が確認できない。
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