正徳四年(1714年甲午)荘内三十三観音札所開設
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 庄内札所霊場御縁起



序文

 わが国における観音札所霊場は、人皇第六十五代花山法皇が、衆生済度の思召しによって関西の地に、三十三ヶ所の観音札所霊場を造り、自ら御詠歌を作製して、観音菩薩の妙智の力によって三十三身に変化して、我等の罪業を消滅し、その利益(りやく)に浴せしめんがために、発願せられたのがそのはじめであるといわれている。
 当庄内の地に札所霊場の設けられたのは、正徳四年羽黒山荒沢寺の大恵東水和尚(三山史の著者)が藤島、鶴岡の僧俗を集め、霊験あらたかな観音霊場三十三ケ所を選定し、当国札所と名づけられ、和尚自ら各地を巡錫してその実情に即した御詠歌を作製せられたもので、その後この霊場に名をかり、他国から隠密の類が入国するようになったので、藩主酒井公もこれを防がんがため、一時巡礼を廃止されたものであるが、廃藩後、御詠歌の流行並びに戦後平和観音霊場設置に伴い、再び観音霊場参りが盛んになってまいったので、神社霊場を改めこれと同時に名を庄内札所観音霊場と改めたので、各寺の御縁起を作製する必要に迫られたものである。






首番 平和観音首番

  羽黒山 荒沢寺 聖観世音

ひとのよの ねがひもつみの やまふかく
     のぼればきよき のりのつきかげ
 
当寺の開山は人皇三十五代崇峻天皇の御子贈溢照見大菩薩といわれ、その創立は今を去る千三百五十年前、推古天皇時代で羽黒山最古の寺院である。開山蜂子の皇子勅 照見大菩薩の別修業の跡に足長(最高位の人)弘俊が一宇を建立し、開祖の恩沢を記念して広沢山荒沢寺と称し、羽黒山八大伽藍の随一となる。後に役の行者神慶大菩薩並弘法大師などもこの地で修行せられたので開山大士が、湯殿山大日如来の和魂(ニギタマ)を地蔵尊とし、荒魂(アラタマ)を不動明王としして祀り、湯殿山御宝前鎮火大権現ともいわれ、特別の崇敬を受けた霊地となり、羽黒山奥の院として女人禁制の聖地となったのである。
今でも境内には芭蕉翁の筆になる「是より女人きんぜい」と大きな石牌がある。明治維新の際、羽黒山と月山の参道に位しながら、佛地で残ったのはこの霊地が如何に尊崇されるかを証明しているものである。
(東田川郡羽黒町手向)

第一番 平和観音第四番

  羽黒山 正善院 聖観世音

たのもしき のりのひかりの こがねだう
     つきぬちかひも よよにしられて
 
黄金堂が当院の観音堂である。当院は羽黒山八大伽藍に数えられ、手向山中禅寺正善院と称したが、運久四年八月源頼朝公が平泉の藤原康衡を討つにあたって、羽黒山に戦捷を祈り、神恩に報いんがために土肥実平(どいさねひら)を奉行とし、金堂山長寿寺を興すに及んで、その塔頭となり、金堂山長寿寺正善院となった。明治維新の際羽黒一山が瓦壊するに及んで羽黒山荒沢寺の塔頭となり、羽黒山荒沢寺正善院といわれるに至つたのである。
昔は○○山○○寺○○院○○坊と称するのが正しい呼称といわれており、その下に坊が沢山あったそうである。手向山中禅寺は下居権現を祀り羽黒山元羽黒といわれる。
黄金堂が建立されてから、池の周圍の佛像を一堂に収め有名なお竹大日堂と弁慶の粕鍋も安置せられている。
(東田川郡羽黒町手向)


第二番 平和観音第四番

  羽黒山 金剛樹院 聖観世音

よのひとを もれなくすくひ たもうこそ
     わがみほとけの ちかひなりけり
 
康永三年権律師智弁、輪換の美を整え当山中興とうして崇められたが、文政五年に手向村全焼の際に類焼し、ついで明治三年の神仏分離の布達で痛手を蒙り、宝物などが悉く散失し古記録類なども散失する始末で、現在では往時を偲ぶよすもがない。
明治維新の頃当寺の住職は飽海郡山楯志田六右衛門家出身の広田和尚であったが、そのころ境内に清水が湧出し金剛清水といわれ、羽黒山五水の随一であたったそうである。
最上義光公の局妙円禅尼は、この寺の裏山に世をのがれて隠棲し、いまでもお局山の跡がある。文政五年類焼した寺は、慶長十六年妙円禅尼の寄進で建立されたといい傳えられている。本尊聖観世音菩薩を安置する観音堂は当山本堂の裏山にあるが、文政十三年羽黒山別当山海僧正の建立によるものといわれ、天井の絵は庄内の画師が寄進したもの。本尊聖観世音は明円禅尼護持佛と傳えられている。
(東田川郡羽黒町手向)


第三番 平和観音第九番

  長瀧山 善光寺 聖観世音

きざはしの のぼるがごとく ぜんこうじ
     おろがむくどく ちかいたのもし
 
当寺は今を去る三百数十年前に本寺光星寺第四世然先全廓(ぜんせんぜんかく)大和尚の開山である。当寺の本尊の釈迦牟尼如來は慈覚大師の御作と傳えられている。善光寺は阿弥陀如来尊像で有名であるが、この阿弥陀如来は第二十代欽明天皇の御代に当時の大臣であった蘇我の稲目へ朝鮮から献上せられたえん浮檀金の阿弥陀如来と称せられている。この佛像は日本に渡来した最初のものであるといわれている。
観音堂に奉祀されている唐代の三彩色焼狛犬は、当時阿弥陀如来渡来の際に先達として共に海を渡って来たものといわれている。
山香焼といわれ、中国に於いても最も古いもんといわれている。酒井忠勝公は高壮なる御堂を建立して如来尊像を奉祀し、ながく酒井家の御守として崇拝された如来像と共に聖観音と勢至菩薩を祀り、当寺の三尊として信仰を集めている。
(東田川郡立川町三ヶ沢 バス三ヶ沢下車)


第四番 平和観音第十番

  福知山 長現寺 聖観世音

もろびとの ねがいもふかき ふくちどう
     だいじだいひの ちかいたのもし
 
当寺の観音はもともと村の鎮守福地大権現と称されて現在の福地神社に祀られていたものであったが、県廰に寺社課が設置されてから大正十五年に神社の社格を規定され、その時に当寺に移されたものであり、翌年九尺(二.七メートル)に二間半(四.五メートル)の観音堂が建立された。なかに祀られている聖観音菩薩は羽黒山より勧請した立像で一尺二、三寸(三十六〜三十九センチ)ぐらいの極彩色で優美なものである。四月九日と九月九日以外の日は住職でもご開帳を禁じられている。そもそも当寺の開創は文禄二年五月といわれているが、もとは後田の松尾山長厳寺の隠居寺として取り扱われ、重要文書等は本寺に収めていたが、その後の火災で焼失した。当寺の開基は長厳寺第五世笑山祖闇大和尚といわれ、境内に第十八世の墓石があるので、二十数代を経ているものと推測される。本尊の釈迦 文殊、普賢の三体は鶴岡市の今野善六という人が寛永五年に寄進されたものである。
(東田川郡羽黒町大字狩谷野目 バス羽黒腺狩谷)


第五番 平和観音第十四番

  桃林山 永鷲寺 十一面観世音

たれもみな いのるこころは ようじゅうじ
     ふかきねがひを うるぞうれしき
 
もともと当寺は華厳寺と称し、約七、八百年前添川の西南中山の地に建立され、その後数百年を経て当地に移されたという。「苔むす三つの石塔こそ添川楯の主、柴氏代々のはかなるぞ」という添川部落の歌がある。昔盛んに唱えられたものでこの詞は当寺を詠ったものである。
柴氏とは添川城主梅津中将井実高公のことで、氏は鎌倉の執権北条時頼の頃国探題として幕府より遣わされた三人の長吏のうちの一人である。俗別柴右衛門といわれ宮城県白石の城主にもなったという。この梅津中将こそ当寺の中興開基に当たる人で、公は深く佛法に帰依し、自分の守護佛なる観音菩薩とともに現今の地に再建したという。時に宝徳三年三月で今より六百年ほど前のことである。
華厳寺を永鷲寺二世大興是準(たいこうぜじゅん)和尚が当寺の開山になり曹洞宗に改宗し、梅津公の祈願所として十万信徒の信仰を深めたものである。
(東田川郡藤島町字添川)


第六番 平和観音第三十一番

  白狐山 光星寺 十一面観世音

つきともに あまねくてらす こうしょうじ
     のりのひかりを あきらかにみん
 
当山は今を去る一千数百年前の貞観三年に、住宝僧正が東北地方巡錫のみぎり羽黒山にたむろしていた際、東北の方に当たり一団の瑞雲中空にたなびいているのをみて、彼の地に霊地のあることを感得してその地に赴き祈願すること数日、ついに白毛金尾の老狐どこよりともなく現われ、僧正の前に来て先導を乞うた。僧正は老狐の後に従って山また山を越えて、瑞雲のたなびく森地に着かれた。
この地こそ今は宇賀の森と呼ばれ、大弁財尊が安置されている霊場である。住宝僧正は深く冥護を謝し、一宇梵刹を建立して已が稔侍佛である観音像を本尊とし、大弁財天と托(←偏はにんべん)枳尼天(だきにてん)の三尊を安置された。
老狐の一族を扶持せよという僧正の遺言により、現今でも毎月七斎日には供物を献ぜられている。星池より得た五尺余(百五十センチ)の華厳釈迦尊の霊体を本尊として祀ったそれで、開山の恵通禅師は光星寺と命名したち言い傳えられている。
(東田川郡立川町三ヶ沢 バス三ヶ沢線三ヶ沢)


第七番 平和観音第二十八番

  法光院 如意輪観音
 
すみぞめの ころもやさらす くろがわの
     なにもみのりの あらわれにけり

慶長十七年に最上義光公より黒印状を寄進せられ、日夕顕密の秘法を修して国土安穏、万民快楽を祈念し、一日もその勤行缺くることなく今日に至ったものである。
最上家はもとより武藤、酒井家祈願所として由緒深い名刹である。
羽黒山荒沢寺の住職であった大恵(東水)和尚が正徳年中に創始した出羽国庄内三十三番札所の中の三十一番として指定せられたものを、酒井家の祈願所であった関係から一時中止したともいわれている。これ庄内藩が領内に隠密の進入をおそれ、巡礼を差し止められたからともいわれている。全国の札所は西国札所の御詠歌を奉唱しているのに、庄内札所のみ特別であったのはこのためであるといわれている。
然るに昭和の御代に至って庄内札所第七番として、再び西国札所観音を勧請して霊顕に浴している次第である。
(東田川郡櫛引村黒川 バス慌(本字=木偏に荒=たらのき)代線宮ノ下)



第八番 平和観音第二十九番

 椙尾山 地蔵院 千手観音

いつのひか またうままちの ぢぞうゐん
     うまれあわせし けふをよろこべ

当時の開基は犬祭で名高い大山町の椙尾神社の創立と同じであると傳えられている。椙尾神社が神仏合体して祀り、繁栄を極めていた時代に坊が六坊あったといわれ、地蔵院の前身は六坊の一つで主坊格であったらしい。
明治維新に神仏分離とあんり、六坊あった坊は地蔵院を除いて全部廃止となり、当山だけが独立したものである。
その当時の住職であった晃順和尚が明治二十年七月に本堂再建を志し、椙尾神社氏子二町四十八村を所有して信徒とし、毎年守護札を配分して十万信徒の浄財を仰ぎ、氏子有志とともに越後の国から五葉松材を購入して建立したという。このためこの観音堂を五葉松殿ともいわれている。当山の本尊は四国三十三所の内、山城の国清水寺の本尊千手観音の分霊を勧請して安置して霊験あらたかな観音像である。
(東田川郡大山町馬町 電車善法寺駅)



第九番 平和観音第十七番

 湯殿山 大日坊 聖観世音

ちかいおく あまねきみなの みほとけに
     こころをこめて ねがへおほあみ

弘法大師が湯殿山を開かれた際に、湯殿山付近の道林で険(険は山偏・嶮)岨で参詣に困難と考え、参詣の道にこの地を選ばれ、湯殿山大日御滝の不動を勧請して開創された。
当時、当山の秘軌を流通しようと考えた沙門が来て、大師より則戒を授かったという。当山の本尊胎蔵界大日如来は弘法大師の作といわれ、開帳を禁じられている。
本尊の前立になっている大日如来は徳川三代将軍の春日局の寄進と傳えられている。本堂に祀られている即身佛は、当村越中山の進藤仁左衛門という。当山の観音は元和年中当時住職慶範和尚が西国三十三観音を勧請して境内に安置した。後元禄に入ってから城主酒井忠真公の御内室が奉納された本尊と共に百体観音を安置している。
(東田川郡朝日村大網)


第十番 平和観音第二十一番

 大佛山 持地院 千手観世音

たのもしや むかしながらの つえざくら
     よくこそしげれ いつのよまでも

創立は今を去る五百六十四年前の応永二年で、岩手県“永徳寺”二世湖海理元(こかいりげん)和尚の創草(草創)といわれる。総丈一丈一尺もある大観音の胎内佛として安置されている。もともとこの霊佛は葛西家の御内佛で、大本山総持寺高尾観音堂のご本尊といわれている。
また大観音にしても西国八十八か所の霊地に建立された尊佛で由緒深いかんのんである。明治の神佛分離で廃佛の御難にかかられた際、豪商今泉氏により東京飯倉に遷座され、昭和八年に不思議な御因縁により、この地に勝縁を結ばれた観音で、座像御尊体には三百余の玉石をちりばめ、金色けんらんとして地方に希な尊佛でもある。当寺の山号は良茂山と称していたが、大正三年に四丈四尺の大仏を建立した時に今の山号に改名した。大仏は立像でその大きさにおいては日本一とまでいわれ、酒田大観音として一躍酒田市の名物となったが、戦時中供出されたもので惜しまれる。
(酒田市台町 バス上台町下車)


第十一番 平和観音第三十番
   円通寺 準胝観音

のぼりなば あとふりかへれ ふもとやま
     ぼだいのみちを いそげともども

曹洞宗円通寺は今を去る五百数十年前の天和三年に越前滝沢村から大叟禅乗(たいそうぜんじょう)という大和尚が巡錫にきて山根に開山したといわれている。このあと寛保二年に火災で焼け、翌三年現在の麓に移轉再建された。同寺の御本尊である聖観音は、作者は不明であるが、衣紋模様や彫刻の深い御容相から受ける感じは全く神々しく、御前にぬかづくとしばし冷厳な感じにとらわれてしまう。これは室町時代の名作といわれている。
本堂伽藍の丸三は昔の観音寺城主来次家(くるつぐけ)家紋を使ったものといわれ、山門もまた裏城門を、そのまま使用されているので、来次氏秀公が麓に観音寺城を築いて縦横の勢力を張った天正年間の往古を偲ぶことが出来る。
同寺境内には来次家の墓もあり、裏手の山一帯に観音寺城跡として館跡、池跡などが残されておりいまでもこの付近から土器などが出ている。その昔はかなり繁栄したものとみられている。
(飽海郡八幡町観音寺麓)


第十二番 平和観音第二十番

  洞瀧山 総光寺 如意輪観世音

としをへて よもやかれじの このさくら
      なかやまでらの あらんかぎりは

当寺は今を去る五百数十年前、南北朝時代に月庵良円禅師によって開かれた。庄内の曹洞宗寺院では最も古い歴史を有し、末寺二十九か寺を持ち境内が六千坪(一万九千八百平方メートル)の本寺格である。
当寺には禅師の弟子が記した“開山禅師行状記”という巻物があり、師の一生をこまかく書いた傳記ともいえよう。
庄内札所第十二番にある「としをへて、よもやかれじの、このさくら、なかやまでらの、あらんかぎりは」の御詠歌は、行状記の一部にそっくり記されている。
当寺の観音は如意輪観音といわれているが、霊験あらたかな聖観音である。また当寺の庭園は庄内の名園の一つである。
(飽海郡松山町松嶺 バス荒興屋線松嶺本町)


第十三番 平和観音第二十二番

  宝蔵寺 如意輪観世音

おのづから ひらくたからの くらなれば
       いつかはつもる のりのやまでら

当寺は中山村(松嶺)の末寺となったが、今より五百年前に総光寺第二世湖月大和尚が開山されたという。当寺の観音は聖観音菩薩であるが、これは室町も中葉ころに寺の奧にある羽黒池から露見したといわれる霊像である。
くすしくも観音の縁日である七月十七日に、霊光を見せたと傳えられているもので、近郊近在の信仰中心となっている。本堂裏の小路を右手に降りて行くと、灌漑用水池として“ちまき池”がある。
青々と澄んだ湖面には常に清涼な趣をたたえており、奥日光の中禅寺湖を連想させる美観を呈している。
さらにこの湖の周圍には三十三観音石像が安置され、当寺に参詣する人に崇敬されている。
また当寺は歴代松嶺城主の信仰が特に厚かったといわれている。第十三番として一般の信仰も高く、宝物が埋蔵されているという御神馬などの古跡もみられる霊場である。
(飽海郡松山町山寺 バス荒興屋山寺)


第十四番 平和観音第八番

 梅枝山 乗慶寺 如意輪観世音

ありがたや みにあまるめの ごりしやうは
       このよばかりか のちのよのため

千四百坪(4620方メートル)の境内には老松大樹うつそうと繁み、その間に山門、石刻三十三観音などが点綴し、鐘楼、本堂、庫裏、その他建物が配置され、みごとな輪かんの美を呈している。
当寺の開基である余目城主阿保太郎助形の居城地で太初継覚を開山として南北朝に創立された。今を去ること五百七十余年前のことである。開基の阿保氏は、太初継覚の師、越前国(福井県)瀧沢寺の梅山聞本を、乗慶寺の開山たるように懇請されたが老齢の故をもって辞し、高弟太初継覚を勧めたという。寺宝に梅山聞本禅師の筆蹟一幅があり、応永二十三年丙申十二月十三日の筆記のあるものである。梅山聞本禅師は、高僧の誉れ高く、足利三代将軍義満が頻りに出京を請うたが、辞して寺門をでなかったという。ご本尊は聖観世音であり絵画、仏像の宝物が多く、近年銅造蔵王権現立像と銅像阿弥陀如来座像が発見され、いずれも鎌倉時代のものと推定されている。
東田川郡余目町字館 羽越腺余目駅下車)



第十五番 平和観音第十八番

 本居山 龍沢寺 聖観世音

いのるより はやあらはるる めうがさわ
       のちのよかけて われをむかへよ

当寺の聖観音は、御丈二尺(60.6センチ)この辺には珍しい念の入った立派な彫刻である。残念なことに、相当あちこち朽ちかけており、作者や年代の記録が明らかでない。しかし姿勢、均衡はきわめてすぐれており、衣紋も流麗な刻み方でおそらく奈良時代に謹製されたものとみられている。
当寺は松嶺、総光寺の末寺に当たり、今より約五百年前の文政年間に、総光寺七世通庵春寮(ついあんしゅんさい)大和尚が茗ヶ沢の沢入りに開山したと傳えられ、その後火災にあって約二百五十年前に現在の沢尻に移轉したといわれている。このあたりの沢一帯はいつも澄みきった空気がただよっておりすがすがしい感懐に包まれており、ひとしお寺院の尊厳が胸に迫ってくる。またこの近く“大古淵”といわれる雨乞い池があり昔は干ばつが続いて困った時には、ここに集まって雨乞いをするとたちまち雨が降ったものという傳説もある。
(飽海郡松山町茗ヶ沢 バス荒興屋線茗ヶ沢)


第十六番 平和観音第二十四番

 松河山 海禪寺 千手面観世音

よそならず ここふだらくの たかんいわ
       きすつなみを ゐながらにきく

当寺 今を去る三百五十有余年前の慶長十七年に鳥海山の麓、落伏の永泉寺第十七世海禪和尚が 、鳥海山大物忌神社信仰に対して庶民の信仰を布教教化しようと、当山を開基し一宇を建立したと云い傳えられている。
 当寺の観音は現住職悲願の観音で”ひめ小松”一本造りの高さ一丈六尺(4.8メートル)もある庄内一の大きな観音像で、その胎内には酒田市加藤安太郎氏寄贈の、石原莞爾将軍が信仰した文殊菩薩が納められている霊佛である。
またこの千手観音信仰を教化するために、飽海、酒田地区一帯の信者で観音奉賛会を結成している。
当寺には法孫第二十一世大法寛海和尚が禅風発展のためにと日本海の荒波に打ち寄せる嵜岩に刻んだ十六羅漢があり、観光客の拝観の的としてまた観光地としての重きをなしている。
(飽海郡遊佐町吹浦バス女鹿線、吹浦線吹浦)


第十七番 平和観音第三番

 薬王山 東光寺 十一面観世音

ただたのめ いらかもたかく とぶとりの
     あすかのてらの ひろきちかひを

東光寺のご本尊は、羽黒、高寺、ともに庄内の三大霊佛として有名な十一面観音である。羽黒の開山能除大師(蜂子皇子)の御作と云い傳えられている。能除大師は酒田の港に浮木があり、常に光明を放っているのを山頂から拝見して、港に下錫して見たところ、桑の木であったという。
大師は自らおのを取り九尊を御刻にになったと云われている。時に養老二年である。大師は本木三尊を高寺照光寺に、中木三尊を当山に、末木三尊を羽黒山にそれぞれ安置された。
中世に入って羽黒、飛鳥の御霊佛は不幸にも兵火により消失したが安政のころやはり同様の火災にあいながらわずかに残った高寺のご本尊改作に当たったときに、その余木で東京の名工西村芳斎氏が千三百年前の昔の容姿をそのままに同木のくしき因縁により再刻したものである。近年建立された本堂の木々よりの御堂に祀られているが、のべ二百人位は、らくに入ることの出来る御堂である。
(飽海郡平田村飛鳥)


ず第十八番 平和観音第二十六番

 生石山 延命寺 聖観世音

あらたなる のりのしるしに おほいしの
     おもきさはりも いまはのこらず

真言宗延命寺は幾多の名所、古跡を有する観光的、景勝地である。当寺は今を去る千百年前に弘法大師の開基と言い傳えられている 往古は十八ヶ寺の末寺を擁し、またこの奧にある鷹尾山には三千坊の僧坊があり、付近には身洗池や常香塚などがあって、南朝の忠臣北畠顕信郷、守永親王を奉じて潜匿したなどの傳説も傳えられている。昔は羽黒山以上隆盛を極めていたところといわれている。当時(ママ)の観音像は、名僧と知られた当山中興二世海上人弘仁弐年栖材一本造りの等身大御丈四尺五寸の国宝級のものであるが、一部破損のため指定にならなかったのが遺憾である。この寺は南北朝時代といわれ国に御二人の天皇を奉じ、同族相い争うというわが国史上悲しむべき哀史を綴った変則時代の修験大道場の遺跡として有名である。
 この時代の悲しい背景を物語る山伏が、供養塔として建立せる安山岩の自然石を利用して造られた全国にも珍しい板碑郡もあって、県の文化財に指定されている。
(酒田市東平田村生石)



十九番 平和観音第三十三番

鳥海山 龍頭寺 十一面観世音

よにひろき つかひはつきじ とりのうみ
     ちひろのさきは よしはかるとも

 この寺は遊佐町蕨岡の上寺(うわでら)にある。こおは鳥海山蕨岡口に当たり、すぐ近くには守護神たる大物忌神社がある。
 また下には桜で名高い鳥海公園もその近くにある。飽海平野や煙突が林立する酒田港を一望におさめることが出来る観光地としても、眺望と自然美とに恵まれているので年中参拝者で賑わっている。
同寺は醍醐天皇の御代に三宝準宮の末寺として新義直公(しんぎなおきみ)という人が松岳山観音寺として開基せられたものと言い傳えられている。その後明暦元年に鳥海山龍頭寺と改称せられた。彼の赤穂義士で有名な大石良雄の次男として生まれ後、深海法師と呼ばれて和尚となった方が法華経という御経を持参して開山に当たったが、思いなかばにして遷化された。
 当寺観音は作者は不明であるが銅製の立派な御尊像である。また当寺は常法談林学頭寺として昔は栄田お寺である。
飽海郡遊佐町上寺


廾番 平和観音第十一

春王山 光国寺 聖観音

これやこの うききにあへる かめがさき
      かかるみのりの よにうまれきて

 当山の旧記によると春王山満蔵院護持の観音堂は、出羽亀ヶ崎城の西方に、今を去る四百余年前の永正年中に、知慶法師が開創したといわれる霊場である。
 当寺に祀られている本尊の聖観世音菩薩は、春日神工の御作で、一般信徒をわが子のようにしろしめし。弘誓の深いことは海にもまさる御本誓という。この霊像が当寺に傳わり、御堂を建立して観音菩薩を安置した。
 その後この地も花の町と化し、本堂や釈迦堂、馬頭観音堂、仁王門などの伽藍も壮麗なもので隆盛を極めたという。
 不幸にもこれら壮麗な伽藍も享保のころ灰と化したが、本尊雙輪の威徳は昔と変わらず、智慧の光高く慈悲の影は深い。
 大正になって佛法興隆の時に逢い十万の信者の崇敬によって堂宇を再建した。
観音堂屋根にきらめく剣かたばみの紋は城主の紋である。
(酒田市今町)



廾一番 平和観音第七

鳥海山 松葉寺 千手観音

みはるかす よもの  やまかは とりのうみ
       たかきをあほぐ めがのしらなみ

 当寺は今を去る約一千年前の万寿年中開山第一世乃善和尚三崎峠に建立す。明治初年の神仏分離まで鳥海山神宮寺の学頭とし、神佛分離により鳥海山大権現並びに末社の雷風神社本尊千手観音を当寺に安置し、庄内札所第廿一番となり戦後如意輪観音を安置して荘内平和観音第七ばんをも併置したものである。また三崎神社本尊慈覚大師の尊像も当寺に安置することになったのである。また当寺よりは一望千里という日本海を望み天下の景勝地として四季参詣者並びに観光客で賑わっている。昔人皇五十二代嵯峨天皇の御代三崎峠に手長脚長(あしなが)という山賊出没し往来の人を悩まし、道行く人なく村人は酉の刻の下りに至れば門戸を閉じ夜は火を焚いて寝しに佛天の加護にやいずれよりか現れしともなく三本足の烏現れ、山賊出し時は有耶と鳴き、出でざる時は無耶と鳴きしとか。諸人その鳴き声を聞きその難をまぬがれしという。今は国道第七号線を開通せしも三崎旧道及びとやとや森(南方産楠樹の一種たふの木)は当寺安置の御佛体とともに文化財に指定されている。当寺所蔵の舞の神歌に こえもせず こえさせもせず みちのくの とやとやの森に 有耶無耶のせき 
(吹浦駅下車海岸通りバス十分)


廾二番 平和観音第三十二番

清流山 洞泉寺 千手観音

たづねいる ひとこそかわれ とくのりの
      あまねきかどの てらゐなりけり

 当山は正法第十四世諦翁連察(たいおううんさつ)大和尚の開山である。観音堂はこれより遙かに古く、大同二年の開創といわれ、弘法大師が一刀三礼の千手観世音菩薩の霊像を安置したのに創まると傳えられている。
 大師東北巡錫の砌り、赤川に梵字の流れ来るのを観じて、遡って湯殿山を開き、顧みて戍(ママ)子の方向に当たるこの地を光明の地として霊場と定められた。故地は現今観音森と呼ばれている。猪子の村名は方角を指して戍子と呼んだのが、いつのころからか猪子と書かれるようになったものであるという。<br> 藩時代には武家の間に信仰厚く、鉄銅の小像を鋳て納める風習があった。また本間光丘翁は宮殿を献じ祈願所として毎年米弐俵宛を寄進した文書が残っている。
(西田川郡三川村字猪子 バス黒森腺農協前) 


廾三番 平和観音第十五番

光国山  勝伝寺 聖観世音

はりまなる しかまにとほき はてまでも
     のりをおもへば ちかよりぞゆく

 当寺の開山は越後の国村上の耕雲寺第七世審厳正察(しんごんしょうさつ)禅師であり、師は仙台市輪王寺より村上に転任したがその間八十余年、この間末寺建立のため努力せられた。
 延徳三年に当寺において示寂されたといわれる。庄内札所当寺の御詠歌に播磨なる飾磨(しかま)に遠き果てまでも法を思えば徒歩(かち)よりぞ行くと唱われてあるが、天正年間播磨の国飾磨の城主赤松則村が足利氏と争ったがみじめな敗戦に終わったので、赤松の家臣兵庫之守、図書之守などが羽黒を頼って奥羽に亡命して来た。
 その後羽黒から天台宗宝蔵院と、ともども現在の播磨に居をかまえることになり、この地を開墾してようやく生活も安定することができたという。
当寺のご本尊は聖観世音菩薩で、一名身ごもり観音ともいわれており、おおむぬ鎌倉時代のものと思われるが優美な霊佛である。
(鶴岡市大字播磨)


廾四番 平和観音第六番

萬歳山 冷岩寺 聖観世音

かりかわや かりのよながら きただての
      ながればかりは かるることなし

 当山は文禄年間最上川のあたり荒鍋に創建、天台宗に属し北楯利長公の祈願所であり、寛永年間の晩秋天台三世玉叟察(ぎょくそうさつ)和尚が曹洞宗の傑僧玄翁心昭(げんのうしんしょう)禅師に降服せられ退山して現在の曹洞宗に改宗した。師は鶴ケ岡総穏寺三世頼山和尚を開山に仰ぎ、自らは二世中興の祖として寺門の隆盛を計ったという。第九世老卵(ろうらん)和尚は紫衣勅許直参内の勅命を拝した高祖であった。
 当寺観音像は昭和二十五年に西国札所二十四番摂州の紫雲山中山寺より分霊、勧請の霊佛である。勧請の本尊十一面観世音菩薩の霊像は、彫刻界の大権威者森野円象士会心の傑作で新たに開眼し平和観音として安置されている。また三十三体の像は第二十二世霊山潭龍(れいざんたんりゅう)和尚が安政のころ西国霊場を三度巡錫して各霊場の土砂で謹作したものである。
(東田川郡立川町狩川 陸羽西腺狩川駅)



廾五番 平和観音第十九番

明石山 龍宮寺 聖観世音

たつのみや ちひろのそこの うろくづも
      もらさですくふ めぐみたのもし

 当寺の創建は今を去る一千百余年天安二年(八五八年)七月で、天台宗本邦第二祖慈覚大師の開基といわれている。大師は清和天皇の勅を奉じて、奥羽地方を巡錫の途中、加茂付近は連日の大旱でなやまされ、住民は瀕死の状態にあった。大師の慈眼は、このありさまを傍視するに忍びずと、ただちに当寺を道場山としてトし、天安二年七月九日に佛勅がかない、龍道戒道の二大龍王妙相が示現したと傳えられている。
 二大龍王は大師の教戒を受けて、たちまち時雨をもよおし、その沢四隣におおい、田畑のものも大いに実のり住民は復活の意欲をもやしたといわれ、大師は竜宮殿に聖観世音菩薩を祀り一宇を創建して明石山龍宮寺と称した。
 その後治承三年に覚快法親王を中興とし、爾来その法灯を傳承し今日に至っているまた毎年六、七月ころともなれば彼方の沖に鯨が姿を現すので有名である。
 当寺の本尊観世音菩薩は慈覚大師の御作である。
(鶴岡市大字加茂バス湯野浜腺石の屋)



廾六番 平和観音第十三番

大日山 長福寺 十一面観世音

わきかへる いでゆにひとを たすくるも
     みなだいじひの ちかひならずや

 当寺の創建は今を去る一千年以上前の大同二年行基菩薩が開基と傳えられている。その後貞享のころ真言宗豊山派の末寺となり、当寺は県下唯一の直末寺院であった。慶長十七年最上少将出羽守義光(よしあき)公より百五十二石の寺領を賜っており、また酒井忠勝公の所領となっても、その寺領は改革されなかったというから格式も相当高い古刹と推定される。
 当寺の本寺は奈良県桜井市にある長谷寺であるが、本寺と当寺としの周圍の状況は同一である。普段は密封されている御本尊秘佛十一面観世音菩薩(聖徳太子御作)でさえも同一の容姿であるという。当寺の宝物は先にあげた本堂秘佛の他に恵心僧都御作の三千像佛画は一ぷくに千人の僧がえがかれている。縦八尺(二・六四メートル)横七尺(二・三一メートル)という大がかりのものである。その画像が三ぷくというからたいしたものである。弘法大師御作といわれれる石造大日如来は、五十年前に大日坂から下げられたものである。
(鶴岡市大字湯田川)


廾七番 平和観音第十六番 

阿迦井山 井岡寺 勢至観世音

ゐのおかや むすぶつつゐの みづきよき
       あかぬみてらを またもたづねん

 当井岡寺は今を去る千百三十三年前(平安朝天長二年)淳和天皇の御代に皇子基貞郷が高野山に於いて修行の後源楽上人と称え諸国の霊場を巡拝の末井岡の地に天皇の勅願所をして阿迦井坊遠賀廼井寺を設立したのを始めとする。本尊徳大勢至観世音菩薩を祀り、その伽藍は広壮華美を極め所謂う七堂伽藍の宝塔、講堂、経蔵、鐘楼、食堂、中門、大門等建ちならび州中の巨藍として出羽高野と呼称され広く崇拝されたものである。その後、治暦年中に消失したが鎌倉殿の祈願所として再建を見た。そして領主武藤家信仰厚く、頼朝公菩提のために三百石余りの寄進があった。その後も数度兵火にかかったが、中興及栄上人の時代に最上家によって再建され寺領百七十二石五斗五升を寄進された。これ羽黒、遊佐の竜頭寺に次いで庄内第三に位する多額の黒印状である。今も薫る庄内名園の一である庭は及栄上人の築造にかかるものである。又三百数十年の歴史を持つ巨木の桜は京都から持ち帰って植えたものといい傳えられている。
 当寺の宝物には大網地区の楯元であった渡野四郎左衛門重吉の奉納された懸佛二面(旧文部省重要美術品)をはじめ弘法大師筆般若心経、本尊黄金秘仏一体を始め数うるに余りあるものが現存している。
(鶴岡市湯田川街道) このページに年号がありこの文章が1958年に書かれた事が判る。


廾八番 平和観音第五番

 新山 龍覚寺 聖観世音

よをまもる のりのしるしに あらたなる
     やまのこずゑに ありあけのつき

 当寺は今を去る七百余年前羽黒山の未だ言宗に属したころには峨々たる険山霊窟で老少婦女の登山し難きを慮り、衆生を化益せんがために羽黒山の聖観世音菩薩の御分身を勧請して、その別院として級鶴岡城の西、三の輪龍覚寺町に一宇を建立したのがその始めであると云われている。その後、この土地は御用地として使用する事となったので浜中街道に移され、慶長十年には三轉して現在の高畑堤上に移され山号を新山と称した。
 天和八年酒井忠勝公御入国の際、お城の鬼門に当たっている所から酒井家の祈願所を仰せつけられ、一躍庄内領寺院中最上位に置かれた寺院である。なおこの観音堂は創立以来火災にかかった事がないので、火防せの観音あるいは厄除け観音として霊験あらたかな霊佛として近隣の信仰を集めている。それで八月九日の祭礼、十二月十七日の御除夜(おとしや)には切山椒祭として賑わっている。
 又明治維新の廃藩置県の際にはお城の四隅に祀った神仏は凡てこれを祈願所たる拙寺に下賜せられたので、珍しい佛像佛画多数、保存せられている。又当寺には大彦の命を祀れる古四王大権現を祀っている。
(鶴岡市高畑町)


廾九番 平和観音第十二番 

修行山 南岳寺 聖観世音 

いくちとせ くにやさかえん つるがおか
     たえぬみのりの はなのかざしに

 当山はかつては花街として知られた七日町に建立されている観音堂は、当寺とはかなり離れているが、その管理は七日町の町内会がおこなっている。当寺の聖観音は聖徳太子の御作といい傳られており、会津若松の慈眼寺三世から奉移された観音である。
 正徳年中に定められた出羽の国庄内三十三所札所の第二十九番霊場として十万信者の信仰の的となった。明治の中頃には七日町一円が火災に遇い、不幸にも柳福寺も全焼せるも再建ならずして当寺に所属したものである。
観音像は二寸(六、〇六センチ)たらずの木彫で、大日如来のたなごころの中に安置されている。ご開帳は午年というから十二年に一度ということになる。この他八月九日と大晦日に祭典を催しているが、大晦日のときの如くには一万余人の参詣者をよび、浅草の酉の市を思わせるものがある。
(鶴岡市銀町)


卅番 平和観音第二十七番

 高寺山 照光寺 千手観音

たのもしな めぐみはよもに たかてらの 
     やまはけころも つゆにぬれても

 当寺は崇徳天皇永治年中(一一四一年)山城法印永忠の記録によると、元正天皇養老二戌(七一八年)に当寺が建立されたとある。
 本尊は庄内三大権現の一つである千手観音菩薩である。十一面観音菩薩、軍荼利明王の三尊これは崇峻天皇の第一皇子能除太子が酒田港の浮木で造られたもので、本木で造った三尊は当寺に、中木三尊は飛鳥山に、末木三尊は羽黒山にそれぞれ祀られている。昔の御佛体はすこぶる宏壮なものであったが、安政四年(一八五七年)古記録と共に消失した。観音ご開帳は三十三年に一度であり、これからは十二年後が御開帳にあたっているといわれている。三十三年の由来というのは、享保七年六月に観音御開帳があり、それは元禄三年はじめて御開帳してから三十三年目に当たっていることからきている。
 当山には酒井家も毎年四月八日に祈願したという。昔から四月八日は高寺八講と称し、賑々しい祭礼が行われその前の六日に社家は獅子頭を舞ながら氏子をまわったといわれている。
(東田川郡羽黒町大字高寺 バス今野行後田)



卅一番 平和観音第二十三番

 湯殿山 注連寺 聖観世音

かのきしに ねがひをかけて おほあみの
        ひくてにもるゝ ひとはあらじな

 同寺は今を去る千百余年前の天長十年丑八月、弘法大師湯殿山御開創の砌り当部落に立寄り、時の楯元であった渡部修理太夫の援助を得て、清浄の地に一宇を建立し、湯殿山の本地佛、金胎両部の一刀三礼の大日如来の御尊像を刻み茲に安置し奉ったのが、この寺の始めである。それで湯殿山関係の寺院としては最も古く最も弘法大師に因縁の深いお寺である。庄内札所第三十一番聖観世音菩薩は第百八代御(ママ)水尾天皇が当山の霊験あらたかなる事を聞こし召され、御祈願所として崇敬遊ばされ、陛下の御遺告により御自作の聖観世音菩薩の御香佛(秘佛)並御三帝の御霊牌を添え、御寄進遊ばされたのが当札所のご本尊である。それで藩主でもこの寺の御門前御通過の際には下馬して通られたということである。昔はこの寺は湯殿山、表口、根本執行、七五三掛坊、護国院、注連密寺と称し女人の山として一般婦人の登山は茲をもって最後とせられた。また湯殿山法楽の発祥地でもあるこの山には、七五三掛桜、三胡(ママ)水などの名所のほか、宝物としては、最上義光の枕屏風、巨勢の金岡の第三(?)完()平法皇の画像、大日如来弘法大師の対面席の掛軸、弘法大師書軸、桜花の化石、桜木大日など、種々の宝物を蔵している。また社会事業家として荘内日報に女踏歌(おんなとうか)として連載小説の主人公たる鉄門海上人の即身佛も安置されている。丑とひつじの年には開帳を行い青年男子の護身法修行を行うことになっている。

(東田川郡朝日村大網七五三掛 湯殿山線大網下車)




卅二番 平和観音第二十五番

大白山 吉祥寺 千手観音

ちよをへて しげれるすぎの いたいがわ
      ながれてきよき のりのみなかみ

 当寺の創草(ママ)は、今より六百十三年前の正平元年(1346)といわれ、開基は大梵寺城主武藤持氏公で、開山は金沢市大乗寺第五世徹山旨廓(てつざんしかく)禅師と傳えられ現住職で四十五世で開山禅師が湯殿山注連寺に駐錫しているころ、時の城主武藤持氏公は重臣を遣して禅師に祈祷を懇望されたが、わしは祈祷坊主にあらずとして拒絶された。しかし再三の懇願によりやむなく注連寺を出発して大梵寺城に入り祈念したところ、城主はまもなく平癒したので城主は一寺を建立して謝意を現されたとのことである。禅師は城下に留まって世塵にまみゆる(ママ)事を厭い、〃へいろ〃に香を盛り、大鳥街道を上り、山添村常盤木を経て、西荒屋の西方を通り母狩山麓に入ったと傳えられている。師はこの地に伽藍を建立し、吉祥寺と命名し、山号は城主の希望で大城山と称した。当時境内地は深山幽谷にあったので狐狼の被害を蒙ること甚大なので現在の地に移されたとのことである。

(東田川郡櫛引村板井川 バス落合線吉祥寺口)


卅三番 平和観音第十一番

金峰山 青龍寺 如意輪観音

めぐりきて こがねのみねに のぼるみは
      はすのうてなの いろとこそみれ

 当寺は現に文部省指定景勝地となっている金峰神社と同時代と言われている。金峰山は天智天皇の十年(872)に役の行者である小角が開基であると言われている。又来迎寺年代記に依れば開山は慈覚大師で弘仁三年(812)に建立したと記録されているが、この他天安二年(858)説もあるが弘仁三年説が有力である。
 当寺の本尊は慈覚大師が金峰山の中腹に位置する中の宮口に、七間四面の中堂を建立した時に安置した如意輪観音である。当時は鎮護国家済世利民の道場として、常法談林を兼ね、最上義光公から黒印を寄進された金峰山の学頭でもあった。元禄十二年(1699)に真言宗豊山派に転じ、数ヶ寺の末寺を有する本寺格でもあった。聖徳年中旧庄内札所三十三番の札所になり、明治の神仏分離の際中の宮に安置されていた如意輪観音像は当寺に移された物で、金峰山と共に賑わっている。
 当寺、寺宝として銅造観音掛佛が保存されている。
 おいずりおさめの御詠歌に

おさめおく のりのころもは せまくとも
     ひろきめぐみの かげはそへなん

(鶴岡市青龍寺 バス岩本線青龍寺)



番外 (平和観音第三十七番)

烏渡川原 観音寺 十一面観音

にごりたる つみもながれて うどがはら 
      こころにうかぶ じひのつきかげ

酒田亀ヶ崎城址烏渡川原鎮座十一面観世音菩薩の御尊像は、曹洞宗の開祖である道元禅師が一刀三礼の御作であると称せられている。亀ヶ崎城主志村伊豆守光安公の祈願所であった。
禅師入唐(ママ)留学から御帰航の際、観音大士の霊験にあづかり無事帰国することが出来たというので、その恩徳に感じ、禅師は帰朝の後、大士の御尊像を彫刻せられた。
禅師はその佛像を肌身離さず、菩提得道の守護佛として秘蔵せられたと言い傳えられている。
往古豊臣秀吉公がこの尊像に帰依し、これを殿中に奉安せしめたが後秀吉公が最上義光公に後事を託する関係上、これを最上義光公に贈られ、義光公叉之を功臣志村伊豆守に贈られた。慶長年間伊豆守当崎城主なるに及んで、旧領地であった最上の郷長谷堂から之を城内に勧請して、城主の祈願佛を定められ、祈願所観音寺をもこの地に移轉せられた。且つては当国三十三所札所として信仰を集めたものであったが、故あってこれを中止したものを、昭和の御代になって再び庄内札所番外として加入することになったのである。
(酒田市烏渡川原 バス酒田線烏渡川原)





庄内三十三観音札所

 観音霊場の開創・巡礼の旅の由来は古く、その開創を遡ると 七世紀、定恵上人、唐に留学、帰国(六六五)に際し、十一面 観世音菩薩を勧請、多武峰寺に祀ったといわれ、養老二年 (七一八)大和(奈良)長谷寺徳道上人が西国三十三観音霊地 を定め開創、約二六〇年後、花山法皇篤く観世音菩薩に帰依な され、衆生済度の思召しにより、自ら御詠歌をお詠みになられ、 播州書写山の性空上人、大和与喜山長谷寺佛眼上人の両高僧と 共に、関西の地に霊地巡礼の行を修したといわれる。
庄内札所観音霊場の開創は、縁起、写本に共通して次の様に 説かれている。
 羽黒山荒沢寺大恵東水和尚(三山史著者)が西国三十三観音 霊地の御土砂を勧請、正徳四年(一七一四)鶴岡・藤島周辺に 三十三の観音霊場を定め、詠歌を詠み当国札所として開かれた のが、その創始であり、詠歌は宮廷歌人、京都の冷泉家の添削 を受けたといわれている。 以来変遷を経て、庄内札所三十三 観音霊場として今日に至っている。
 観世音菩薩、その御影から感得されるものは、広大無辺なる 大慈悲心、高潔無量なる清浄光、除災写楽の妙智力、自在神力 であり、その御影には完結された、りそうてきな・絶対的人格 像そのものであるといえる。
 平成十二年、庄内札所開創二九〇年の良き縁年を迎え、観世 音菩薩の妙智力、自在神力とによって、現世、未来にわたり衆 生化益を成就せんことを祈ると共に、同行二人の旅、巡礼の旅 をお勧め申し上げ、旅の一助となれば幸甚に存じます。                 合掌

二十六番 長福寺 中


以上 当て字 脱字 明らかな勘違い などありますが 原文に出来るだけ忠実に再現してあるためです。


首番羽黒山 荒沢寺羽黒山修験本宗聖観音鶴岡市羽黒町手向字羽黒山240235-62-2380N38.41.59 E139.59.06
第一番羽黒山 正善院羽黒山修験本宗聖観音鶴岡市羽黒町手向字手向2310235-62-2380N38.42.45E139.57.40
第二番羽黒山 金剛樹院天台宗聖観音鶴岡市羽黒町手向字手向2850235-62-2564N38.42.44 E139.57.27
第三番長瀧山 善光寺曹洞宗聖観音庄内町三ヶ沢字宮田20234-56-2892N38.45.09 E139.57.50
第四番福地山 長現寺曹洞宗聖観音鶴岡市羽黒町狩谷野目字高坂320235-62-2004N38.43.16 E139.52.33
第五番桃林山 永鷲寺曹洞宗十一面観音鶴岡市添川池苗代400235-64-266N38.44.18 E139.58.01
第六番白狐山 光星寺曹洞宗十一面観音庄内町三ヶ沢中里47023-631-7570N38.45.21 E139.57.48
第七番寺尾山 法光院真言宗智山派如意輪観世鶴岡市黒川宮の下2900235-57-2492N38.39.44 E139.52.39
第八番椙尾地蔵院真言宗智山派千手観音鶴岡市馬町琵琶川原97 N38.45.44 E139.46.13
第九番湯殿山 大日坊真言宗豊山派聖観音鶴岡市大網入道110235-54-6301N38.35.22 E139.54.13
第十番良茂山 持地院曹洞宗千手観音酒田市日吉町1-4-380234-24-1164N38.55.08 E139.50.11
第十一番見龍山 円通寺曹洞宗准胝観音酒田市麓盾の腰500234-64-2163N38.58.08 E139.57.02
第十二番洞瀧山 総光寺曹洞宗聖観音酒田市総光寺沢80234-62-2170N38.51.22 E139.58.15
第十三番東林山 宝蔵寺曹洞宗聖観音酒田市山寺見初沢1540234-62-2169N38.50.43 E139.58.03
第十四番梅枝山 乗慶寺曹洞宗如意輪観世庄内町館270234-42-3410N38.50.36 E139.53.57
第十五番本居山 瀧沢寺曹洞宗聖観音酒田市茗ヶ沢沼尻1400234-62-3629N38.52.23 E139.57.59
第十六番松河山 海禅寺曹洞宗千手観音遊佐町吹浦横町540234-77-2101N39.04.17 E139.52.43
第十七番薬王山 東光寺曹洞宗十一面観音酒田市飛鳥大道端1040234-52-3366N38.53.06 E139.55.16
第十八番生石山 延命寺真言宗智山派聖観音酒田市生石大森山1640234-94-2361N38.55.04 E139.56.45
第十九番鳥海山 龍頭寺真言宗智山派十一面観音遊佐町上蕨岡松ヶ岡450234-72-2553N38.59.35 E139.56.50
第二十番春王山 光国寺真言宗醍醐派聖観音酒田市日吉町1-3-80234-22-1653N38.55.01 E139.50.11
第二十一番鳥海山 松葉寺真言宗智山派如意輪観音遊佐町吹浦丸岡1480234-77-2754N39.06.02 E139.53.00
第二十二番清流山 洞泉寺曹洞宗千手観音三川町猪子甲850235-66-2023N38.48.40 E139.50.47
第二十三番光国山 勝伝寺曹洞宗聖観音鶴岡市播磨乙43-440235-29-2279N38.46.00 E139.49.40
第二十四番萬歳山 冷岩寺曹洞宗十一面観音庄内町狩川阿古屋420234-56-2141N38.47.05 E139.58.31
第二十五番明石山 龍宮寺天台系単立聖観音鶴岡市加茂弁慶沢1-1 N38.45.40 E139.44.16
第二十六番大日山 長福寺真言宗豊山派十一面観音鶴岡市湯田川乙350235-35-2226N38.41.26 E139.46.18
第二十七番大日山 井岡寺真言宗智山派勢至観音鶴岡市井岡甲1990235-22-7084N38.42.36 E139.47.47
第二十八番新 山 龍覚寺真言宗豊山派聖観音鶴岡市泉町1-130235-24-2033N38.43.49 E139.50.09
第二十九番修行山 南岳寺真言宗智山派聖観音鶴岡市砂田町3-60235-22-5054N38.43.51 E139.48.35
第三十番高寺山 照光寺真言宗豊山派千手観音鶴岡市羽黒町高寺南畑760235-62-3154N38.41.49 E139.52.32
第三十一番湯殿山 注連寺真言宗智山派聖観音鶴岡市大網中台920235-54-6536N38.36.00 E139.53.25
第三十二番太白山 吉祥寺曹洞宗千手観音鶴岡市板井川村西430235-57-2565N38.38.19 E139.50.08
第三十三番金峰山 青龍寺真言宗豊山派如意輪観音鶴岡市青龍寺金峰60235-24-0211N38.41.05 E139.49.00
番外慶光山 観音寺真言宗智山派十一面観音酒田市亀ヶ崎5-1-380234-24-4093N38.53.58 E139.50.58



巡礼・遍路  本山HPより http://www.chisan.or.jp/chisan/kaisetu/h19nendo.html 少し追加文章あり

 西国三十三観音、坂東三十三観音、e秩父三十四観音などの観音霊場に代表される札所や聖地を巡拝することを「巡礼」といいます。また四国八十八ヵ所など、弘法大師が修行された足跡をたどる霊場巡りを「遍路」と呼びます。

荘内では三十三観音、平和百観音、出羽十三佛、他に不動三十六箇所(八?)地蔵などもある様です。

 亡き人の菩提を弔う、自分や家族の病気が治るように、深い悩みや不安を解消するためなど、巡礼・遍路に出る人の動機は様々ですが、巡拝を進めるにつれて、「物心ともに施しあう」「やさしい言葉で励ましあう」「他人のためになるようにする」「他人の立場に立って行動する」という行い(善行)の大切さを、自然と理解できるようになります。また、心を込めて手を合わせるうちに、仏さまやお大師さまとのご縁を身近に感じ、信心が深まっていきます。
 札所では、体を清め、ご本尊の宝前に灯明・線香をあげ、お経や御詠歌をお唱えします。納札(おさめふだ)を奉納したり、写経や写仏を納めます。納経帳や納経軸にいただく御朱印は、仏さまやお大師さまとのご縁を確かにする証しです。


巡礼の方へ、
蝋燭は火を点けたら退堂時には必ずお消し下さい。
中央に一使用していない蝋燭を立ててあります。これは万が一蝋燭をお持ちするのをお忘れになった方にご使用頂ける様にというあなたの前にお参りになった方が置いて行かれた物です。上記にもあります巡礼の心がそうしているのです。その蝋燭をお使いになって頂き、縁(円)が繋がるように次の人に新しい物を残して行きましょう。
防火上線香にもご注意下さい。
それから退堂時には電灯もお消し下さい。
もう一つ、扉も閉めて下さいね。最近ハクビシンが現れました、ネコも入ります、シマヘビも入ります。先日はマムシと玄関で遇いました。

平成22年は御開帳の年です。コピーは「観音様が見ていてくれる」

十句観音経とお参りの次第(メニュー)はこちら




明治期の版ですので現在と違います。

 どなたかが纏めて下さっていたGoogleマップですhttps://www.google.com/maps/d/viewer?mid=1p3d9wyTO1FvgWuH7oUmed8cqWVQ&hl=en_US

注意。堂内の撮影の制限
 堂内の撮影に関しては博物館などと同じ様に原則として禁止致します。個人の使用のみ、人物のみの画像の場合は許可致しますが、堂内の状態をブログなどにUPするのは差し控えて頂きたいと思います。詳しくは管理者にお訊ね下さい。
 ご開帳とは普段拝顔することが出来ない仏様を縁年などで扉や帳を開き実際に足を運び観音様に会いにお出でになった皆様に拝んで頂くという宗教的行事です。
 また、古いお寺ばかりなので文化財に指定されている仏様も多数あります。文化庁から文化財の保存に関して鍵を掛けるなどの処置をしなさいという通達も来ています。言うまでもなく防犯上の喚起ですが、この札所内でも仏様が多数盗まれています。幸い数体は帰って来てその後国宝になった物さえあります。



 各寺院では保安上の設備をされている所もありますし、万が一の場合に備えて仏様のデーターを取り保存することも少しずつされ初めてはいますが、まだ普及するまでは時間がかかりそうです。
リスクは出来るだけ回避したい・・リスク管理が寺でも必要な、いやな時代になったと。

荘内平和観音霊場    出羽路十三佛霊場

外部リンク
観音霊場http://www.geocities.jp/jp_teiou/suushi2/33_kannon.html
信濃三十三番観音巡礼 「大いなる旅路へ TO GREAT SPILITUAL JOURNEY 」信濃長谷寺副住職 岡澤慶澄師 http://www.eonet.ne.jp/~manjusri/hasedera/journey.html



お陰様をもちまして 平成22年10月30日夕刻恙なく帳をおろすことが出来ました。皆様に心から感謝申し上げます。

願以比功徳 普及於一切 我等與衆生 皆共成仏道>