プロフィール

私の生いたち

 

 


アルバム

私の生いたち

 


アルバム

プロフィール

 

 

誕生

1949年9月25日
(昭和24年)
静岡県浜名郡舞阪町
 

幼少時代

祭りが大好き で、幼児の頃から手踊りに参加。お手玉やおはじきに熱中だった。

 

学歴

舞阪町立舞阪小学校   卒業
舞阪町立舞阪中学校   卒業
静岡県立浜松南高等学校 卒業

     
    ▲祭りにて 7才 (中央)   ▲舞阪中学3年1組クラスメイト と   ▲南高時代バスの中で

職歴

鈴木自動車 (株)
国鉄労働組合浜松工場支部 書記
自主学童保育「松ぼっくり児童会」指導員
聖隷福祉事業団労働組合 書記

 

立候補までのいきさつ

本社会党浜松総支部より、女性候補を擁立したいとの熱心な要請 を受ける。当時、中学2年の長女に「思いきってやってごらん」と励まされ、また尊敬する方や親友に相談し、長い間悩みぬいた結果、「福祉・環境・平和」を 政策の柱として立候補を決意。

 
▲聖隷福祉事業団労組の書記とし て働く   ▲初当選し、市役所7階議員控室 で

連続当選

1987年 (S62) 4月/初当選
1991年(H03)4月/2期目当選
1995年(H07)4月/3期目当選
1999年(H11)4月/4期目当選
2003年(H15)4月/5期目当選
2007年(H19)4月/6期目当選

2011年(H23)4月/7期目当選

 
 
▲4期目 溝口後援会長から花束をいただく   ▲2期目/多くの支援者に囲まれて「当 選」を喜ぶ

1949年 (S24)
1958年(S33)
1968年(S43)
1970年(S45)
1972年(S47)
1973年(S48)
1974年(S49)
1977年(S52)
1979年(S54)
1983年(S58)
1986年(S61)

1987年(S62)
1991年(H03)
1995年(H07)
1999年(H11)
2003年(H15)
2007年(H19)
2011年(H23)
2015年(H27)
  9月25日浜名郡舞阪町で漁師の長女として生 まれました。(旧姓 樋山)
母が白血病で亡くなりました。
県立浜松南高等学校を経て鈴木自動車へ就職しました。
職場で知り合った小沢実と結婚し、遠州浜団地に家を建てました。
出産のため鈴木自動車工業を退職しました。 長女が生まれ、明子と名づけました。
6月7日夫が帰宅途上で自動車事故に遭い入院し、同年11月23日他界しました。
夫の遺志を継ぎ日本社会党に入党しました。
国鉄労働組合浜松工場支部の書記になりました。
自主学童保育「まつぼっくり児童会」を結成し、指導員となるため国鉄労働組合を退職。
「まつぼっくり児童会」の解散にともない聖隷福祉事業団労働組合の書記となりました。
8月で聖隷労組を退職しました。
社会党から次期浜松市会議員選挙の予定候補として指名を受けました。
浜松市議会議員選挙に初当選しました。        → 選挙ポスターの写真
浜松市議会議員選挙に2期目の当選を果たしました。  → 選挙ポスターの写真
浜松市議会議員選挙に3期目の当選を果たしました。  → 選挙ポスターの写真
浜松市議会議員選挙に4期目の当選を果たしました。  → 選挙ポスターの写真
浜松市議会議員選挙に5期目の当選を果たしました。  → 選挙ポスターの写真
浜松市議会議員選挙に6期目の当選を果たしました。
浜松市議会議員選挙に7期目の当選を果たしました。
4月末日をもって引退。
28年間、あたたかなご支援、本当にありがとうございました。

母の身代わりに家業手伝い

 私は1949年(昭和24)、旧浜名郡舞阪町に生まれました。父の樋山頼 次は漁師で、兄弟は弟と妹の三人でした。母はとても働き者でしたが、私が九歳のとき病気で亡くなりました。
 私と七歳の弟、四歳の妹の三人は、祖母の手によって育てられました。私は母の代わりになって、家事、家業の手伝いをすることになりました。冬場の海苔の 仕事は、寒風の吹きすさぶなかで、手はかじかみ、鼻を真っ赤にして行いました。
 舞阪の小、中学校を卒業し、県立浜松南高校商業科へ進学しました。新しい学校で最新設備の和文・英文タイプの技術を身につけたいと考えたからです。
 南高校を卒業し、鈴木自動車工業(現スズキ)に就職しました。しばらくして職場の方からハイキングに誘われました。その中に、後に結婚する小沢実もいま した。
 小沢は本をよく読み、マメに筆をとる人でした。毎年一年を振り返って「一年十話」という、ガリ版刷りの個人文集を発行していました。
 その年発行された十話の中に、「拝啓 樋山明美様」という文章がありました。職場の先輩として、私に話しかける形で、労働者の人生観を語ったものでし た。これがきっかけとなり、私も小沢に手紙を書くようになり、「お兄ちゃん」「妹へ」と呼ぶ文通がはじまりました。
 それから半年後、私は小沢と結婚の約束をしました。当時、私は19歳、小沢は30歳でした。私が若すぎることと、小沢との年齢差に対し、まわりは猛反対 でした。
 二年後、私たちは結婚しました。

結婚、そして夫の事故死

 結婚直後は、中田島の市営住宅に住みました。その後、遠州浜の分譲団地 に、二人で働いた頭金でマイホームができました。
 翌年の夏、出産のため退職しました。秋に長女が生まれ、明子と名づけました。娘の誕生を記念して、夫は社会党に入党しました。
「子どもたちの未来のためにも、平和な社会をつくらねば」が、夫の口癖でした。
 夫は組合の専従役員になりましたが、一年で交代勤務の職場に戻りました。そして、社会党の新聞「社会新報」の通信員となりました。わが家には夫の友人た ちが集まり、夜遅くまで勉強会や議論が続いていました。私は、忙しく活動する夫に少し不満でした。もっと家庭中心にしてもらいたかったのです。
 1973年(昭和48)6月7日、夫は仕事からの帰宅途中、自宅近くの交差点で交通事故に会いました。一命はとりとめたものの、意識は戻らず、翌年11 月23日、帰らぬ人となりました。35年の短い生涯でした。
 当時24歳だった私は、一歳一ヶ月の明子をかかえ、悲しみに打ちのめされそうでしたが、友人たちの励ましで、少しずつ元気をとり戻すことができました。

子育てと学童保育所づくり

 多くの友人たちに支えられて、私は絶望の淵から抜け出し、立ち直ることが できました。同時に「娘のために平和な社会をつくりたい」との夫の遺志を継ぐ決意で、社会党に入りました。国鉄浜松工場の労働組合から書記に、という話を いただき、勤めることになりました。その当時(1977年)の国鉄労働組合は全盛期で、活発に活動していました。
 やがて、明子が小学校へ入学する時になり、私は悩みました。どうしても「かぎっ子」にしたくないと。そこで、近所のお母さんたちと「遠州浜に学童保育を 作ってほしい」と、市役所に陳情に出かけました。市の対応は、「現在の4ヶ所から増やすつもりはありません」とそっけないものでした。
 「市でやってもらえないなら自分たちの手でつくろう!」と、お母さん方に呼びかけました。そして、13名の子どもによる「松ぼっくり児童会」がスタート しました。私は、学童保育指導員となりました。
 三年目を迎えたころ、市内のあちこちで自主学童保育所ができました。市もこの状況に態度を変えはじめ、遠州浜でも学童保育を始めると言うのです。私たち は「松ぼっくり児童会」に市の補助金を求めましたが、市は私たちとは無関係に学童保育を始めるということでした。結局私たちの自主保育は、四年間で幕を閉 じることになりました。たくさんの楽しい思い出と、元気に育った子どもたちを送り出して‥‥‥。

娘に背中を押され決意

 学童保育の指導員をやめた私は、聖隷浜松病院(住吉)の労働組合書記とし て働くことになりました。
 娘の明子も中学校に進み、安定した暮らしを送ることができ、ようやく「ホッ」としかけた時に、「市会議員の選挙に出ないか」との話が飛び込んできまし た。私の人生は、またまた嵐の中に投げ込まれました。
 私にできるだろうか、と何日も悩みました。先輩や友人からは、「肩ひじ張らずに一人の主婦として、お母さんたちの願いを代弁するパイプ役になれば」と励 まされました。
 いちばん心配だった娘からは、「お母さんは今まで私に、失敗してもいいから精一杯頑張ってごらん、と言ってきたんだから、今度はお母さんが頑張る番だ よ」と、逆に勇気づけられました。学童保育の経験から、市民の願いに耳を傾ける市政であってほしい、という想いと、あの時の悔しさがバネになったかも知れ ません。

 

 

一歳一カ月の私と母

 

楽しかった「まつぼっくり児童会」