母の身代わりに家業手伝い
私は1949年(昭和24)、旧浜名郡舞阪町に生まれました。父の樋山頼
次は漁師で、兄弟は弟と妹の三人でした。母はとても働き者でしたが、私が九歳のとき病気で亡くなりました。
私と七歳の弟、四歳の妹の三人は、祖母の手によって育てられました。私は母の代わりになって、家事、家業の手伝いをすることになりました。冬場の海苔の
仕事は、寒風の吹きすさぶなかで、手はかじかみ、鼻を真っ赤にして行いました。
舞阪の小、中学校を卒業し、県立浜松南高校商業科へ進学しました。新しい学校で最新設備の和文・英文タイプの技術を身につけたいと考えたからです。
南高校を卒業し、鈴木自動車工業(現スズキ)に就職しました。しばらくして職場の方からハイキングに誘われました。その中に、後に結婚する小沢実もいま
した。
小沢は本をよく読み、マメに筆をとる人でした。毎年一年を振り返って「一年十話」という、ガリ版刷りの個人文集を発行していました。
その年発行された十話の中に、「拝啓 樋山明美様」という文章がありました。職場の先輩として、私に話しかける形で、労働者の人生観を語ったものでし
た。これがきっかけとなり、私も小沢に手紙を書くようになり、「お兄ちゃん」「妹へ」と呼ぶ文通がはじまりました。
それから半年後、私は小沢と結婚の約束をしました。当時、私は19歳、小沢は30歳でした。私が若すぎることと、小沢との年齢差に対し、まわりは猛反対
でした。
二年後、私たちは結婚しました。
結婚、そして夫の事故死
結婚直後は、中田島の市営住宅に住みました。その後、遠州浜の分譲団地
に、二人で働いた頭金でマイホームができました。
翌年の夏、出産のため退職しました。秋に長女が生まれ、明子と名づけました。娘の誕生を記念して、夫は社会党に入党しました。
「子どもたちの未来のためにも、平和な社会をつくらねば」が、夫の口癖でした。
夫は組合の専従役員になりましたが、一年で交代勤務の職場に戻りました。そして、社会党の新聞「社会新報」の通信員となりました。わが家には夫の友人た
ちが集まり、夜遅くまで勉強会や議論が続いていました。私は、忙しく活動する夫に少し不満でした。もっと家庭中心にしてもらいたかったのです。
1973年(昭和48)6月7日、夫は仕事からの帰宅途中、自宅近くの交差点で交通事故に会いました。一命はとりとめたものの、意識は戻らず、翌年11
月23日、帰らぬ人となりました。35年の短い生涯でした。
当時24歳だった私は、一歳一ヶ月の明子をかかえ、悲しみに打ちのめされそうでしたが、友人たちの励ましで、少しずつ元気をとり戻すことができました。
子育てと学童保育所づくり
多くの友人たちに支えられて、私は絶望の淵から抜け出し、立ち直ることが
できました。同時に「娘のために平和な社会をつくりたい」との夫の遺志を継ぐ決意で、社会党に入りました。国鉄浜松工場の労働組合から書記に、という話を
いただき、勤めることになりました。その当時(1977年)の国鉄労働組合は全盛期で、活発に活動していました。
やがて、明子が小学校へ入学する時になり、私は悩みました。どうしても「かぎっ子」にしたくないと。そこで、近所のお母さんたちと「遠州浜に学童保育を
作ってほしい」と、市役所に陳情に出かけました。市の対応は、「現在の4ヶ所から増やすつもりはありません」とそっけないものでした。
「市でやってもらえないなら自分たちの手でつくろう!」と、お母さん方に呼びかけました。そして、13名の子どもによる「松ぼっくり児童会」がスタート
しました。私は、学童保育指導員となりました。
三年目を迎えたころ、市内のあちこちで自主学童保育所ができました。市もこの状況に態度を変えはじめ、遠州浜でも学童保育を始めると言うのです。私たち
は「松ぼっくり児童会」に市の補助金を求めましたが、市は私たちとは無関係に学童保育を始めるということでした。結局私たちの自主保育は、四年間で幕を閉
じることになりました。たくさんの楽しい思い出と、元気に育った子どもたちを送り出して‥‥‥。
娘に背中を押され決意
学童保育の指導員をやめた私は、聖隷浜松病院(住吉)の労働組合書記とし
て働くことになりました。
娘の明子も中学校に進み、安定した暮らしを送ることができ、ようやく「ホッ」としかけた時に、「市会議員の選挙に出ないか」との話が飛び込んできまし
た。私の人生は、またまた嵐の中に投げ込まれました。
私にできるだろうか、と何日も悩みました。先輩や友人からは、「肩ひじ張らずに一人の主婦として、お母さんたちの願いを代弁するパイプ役になれば」と励
まされました。
いちばん心配だった娘からは、「お母さんは今まで私に、失敗してもいいから精一杯頑張ってごらん、と言ってきたんだから、今度はお母さんが頑張る番だ
よ」と、逆に勇気づけられました。学童保育の経験から、市民の願いに耳を傾ける市政であってほしい、という想いと、あの時の悔しさがバネになったかも知れ
ません。
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