明智光秀
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明智光秀といえば、本能寺の変で信長を裏切るも、山崎の戦いで秀吉に敗れ「三日天下」に終わったといったイメージが強いですね。
彼の前半生については信憑性のある史料が少なく謎に包まれています。一般的には、美濃の守護土岐氏の一族の明智光綱の子であり、光綱が光秀が幼少の頃に亡くなった為、叔父の光安に育てられたという説がもっとも有力ですが、若狭の刀鍛冶の息子という説もあります。
はっきりしたことがわかってくるのは斎藤道三に仕えた頃から。
初めて仕えたのが斎藤道三でしたが、この斎藤道山が息子の斎藤義龍に討たれた際に一族の多くは討ち死・・・。光秀は諸国を放浪し極貧生活を強いられることとなったといわれています。
しかし、その後、光秀は鉄砲の腕をかわれ越前の朝倉氏に召し抱えられることになりました。
1565年、13代室町幕府の将軍足利義輝が松永久秀と三好三人衆によって殺害され、従兄弟にあたる足利義栄が家督を継ぎます。
義輝の弟である足利義昭は京都を逃れ近江の六角義賢、そして、その後、越前の朝倉義景を頼ってやってきました。義昭としては、ひそかに入京の機会をうかがっていたわけです。しかし、朝倉義景は動こうとしません。
これに見切りをつけた明智光秀は、桶狭間の戦い以降勢いにのっている信長と接触。足利義昭を奉じて上洛するように要請する使者となりました。
足利義昭が越前の朝倉氏のもとから美濃の信長のもとに赴く際に光秀は同行したともいわれています。
1568年、信長は義昭を奉じて上洛し14代将軍足利義栄を追い出し、義昭を将軍にします。
その後、義昭と信長の両属の家臣となりますが、信長と義昭が対立し始めると信長の直臣となりました。
1571年、信長から明智光秀は近江国滋賀を与えられ坂本城を築城して居城とします。城主となった光秀は、石山本願寺、荒木村重、松永久秀など近畿各地で戦い武功をあげていきます。
1575年には丹波攻略に着手しますが、この戦いが光秀が信長に恨みを抱いたきっかけになったのではないか?といわれています。
丹波攻略では、信長方であったはずの波多野秀治が反乱を起こします。この地域では、足利義昭派が多く以前は信長に従っていたんですが、信長が義昭を追放したため裏切ったんですね。
こんな状況下で苦戦する中。明智光秀は、波多野秀治に自分の母親を人質として差し出し、代わりに波多野秀治ら3兄弟に対して信長のところへ赴くように促します。ですが、信長は、その三兄弟を処刑してしまうんですね。もちろん、人質として差し出した母親は報復として殺されてしまいます。
一応、丹波攻略に成功した光秀は、丹波一国290000石を与えられ、滋賀の50000石と合わせて34万石となり、信長からもめちゃくちゃ褒められるんですが、母親が殺されているので恨んでいる可能性もありますね。
さて、そして1582年に本能寺の変です。
毛利討伐で中国地方に向かっていた秀吉から援軍の要請が入ります。信長は、光秀に対して出陣命令を下しますが、丹波、山城、坂本などの領地を光秀から取り上げ、代わりに毛利の所領をやる!というのです。
捉え方によっては、信長の光秀に対しての絶対の信頼のようにも思えますがたまったもんではありませんね。
中国攻めを支援するように命じられていた光秀。しかし、「敵は本能寺にあり!」と部将たちに号令をかけ、12000の兵を率いて信長のいる本能寺に攻め込みます。
信長側はわずかな手勢。完全に油断していた信長は自らも弓や槍をとって応戦しますが、やがて追いつめられ火の放たれた寺の中、自害に追い込まれました。
明智光秀は本能寺の変の後、近江の坂本城に入って態勢を固めます。しかし、秀吉が信長の死を聞きつけ、戦を講和に持ち込み、裏切者の光秀を討伐するため京都に馬を走らせます。
両軍は山城国山崎で激突。軍勢は秀吉36000に対し光秀16000。秀吉圧倒的有利です。
攻め込まれ劣勢となった光秀は家臣である三宅綱朝がいる山城国勝龍寺城に向かいますが、ここでも攻撃にあい、伏見を経由して坂本に向かいますが、途中で名もない農民に竹やりで刺され殺されてしまいました。享年55歳。
3日天下といわれますが、実際は10日ほどの天下でした。
明智光秀略年表 |
1528年? |
明智光綱の子として美濃に生まれる? |
1568年 |
足利義昭と信長を引き合わせる。 |
1569年 |
京都で政務を担当。近畿での戦いで功績 |
1571年 |
近江の坂本城の城主となる。比叡山延暦寺の焼き討ちに参加。 |
1575年 |
丹波攻略開始 |
1579年 |
丹波を平定し信長から丹波を与えられる |
1582年 |
本能寺の変。山崎の戦い。 |
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