安政の大獄(あんせいのたいごく)とは、朝廷の許可も得ないまま、日米修交通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)を結んでしまった井伊直弼(いい なおすけ)。彼には、多くの批判を寄せられます。それに対し、井伊直弼は、この反対派の人々を次々に処罰していくのです。このことを安政の大獄といいます。では、この安政の大獄について少し詳しくみてみましょう。
朝廷の許可も得ないまま、治外法権や関税自主権などを日本が持たないなどといった不平等条約をアメリカと結んでしまった井伊直弼。これにより、将軍の跡継ぎ問題で井伊直弼ら南紀派と対立していた一橋派は、彼への批判をいっそう強めていくことになります。
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日米修交通商条約の調印から5日後の1858年6月、一橋派の徳川斉昭(なりあき)、松平慶永(よしなが)らは、井伊直弼の責任を問うべく江戸城に向かいます。これに対し、井伊直弼は不法な登城であると彼らを処罰するという強気の姿勢にでました。また、孝明天皇(こうめいてんのう)も井伊直弼に対して、京都に来て説明するよう命令しますが、井伊はそれも無視!
この井伊直弼の行動に対して不満を抱き、天皇を尊び開国に反対するという尊王攘夷運動(そんのうじょういうんどう)が全国に広まっていくことになります。
この世の中の不穏な空気に井伊直弼は1858年から翌年にかけ、反対派を次々に処罰していくことにします。
これが、いわゆる安政の大獄です。
この安政の大獄では、吉田松陰(よしだ しょういん)も死罪になっています。
吉田松陰は、松下村塾(しょうかそんじゅく)という塾で武士、町人の隔たりなく学問を教えていた人で、その生徒たちが後に日本を動かすものすごいメンバー。武士以外からも志のある兵を集め奇兵隊を組織した高杉晋作(たかすぎ しんさく)。明治維新に貢献した木戸孝允(きど たかよし・この時は桂小五郎という名前だった)。また、初代総理大臣になった伊藤博文(いとう ひろぶみ)もいました。
不平等条約に加え、安政の大獄にて多くの人々を処罰していった井伊直弼。彼のやり方には当然不満をもつ人が多くいた。そして、この後の桜田門外の変(さくらだもんがいのへん)へと続いていくのですが、それはまた別のページにて・・・。
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安政の大獄で処刑された主な人々 |
人名 |
身分 |
処罰 |
徳川斉昭(とくがわ なりあき) |
前水戸藩主 |
永蟄居(永久的に謹慎) |
松平慶永(まつだいら よしなが) |
越前藩主 |
隠居 |
橋本佐内(はしもと さない) |
越前藩士 |
死罪 |
一橋慶喜(ひとつばし よしのぶ) |
一橋家当主 |
隠居 |
徳川慶勝(とくがわ よしかつ) |
尾張藩主 |
隠居 |
頼三樹三郎(らいみきさぶろう) |
学者 |
死罪 |
吉田松陰(よしだ しょういん) |
藩士 |
死罪 |
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