歴史年代ゴロ合わせ暗記  

歴史年代ゴロ合わせ暗記吉田松陰
   

吉田松陰の生涯

  
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吉田松陰
 

 吉田松陰は、1830年、長州藩の下級武士の次男として生まれます。その後、同じ長州藩の吉田家の養子となりました。

 有名な話では、あのペリーが来航した際、海外の文化に感動を覚え黒船に乗り込もうとして捕まっています。

 その時、吉田松陰は25歳。ただ、捕らえられ、送られた先の長州藩の獄中では、割と自由が許されていたようで、一説には獄中の囚人達に吉田松陰は「孟子」を教えていたとか、獄中で読書会や俳諧の会を開いていたとも言われています。

 牢獄から出た吉田松陰は、幽閉の身ではありましたが、藩から許可を得て、あの「松下村塾」を開きます。松陰の松の字が使われているので吉田松陰が始めた塾だと思われがちですが、実は松下村塾を最初に開いたのは、吉田松陰の叔父の玉木文之進という人です。その松下村塾の名を吉田松陰が引き継いだ形ですね。

 この松下村塾の生徒達がびっくりするくらい後に有名になる人々。伊藤博文、高杉晋作、山県有朋、前原一誠・・・。また、これらの優秀な武士のみならず、松下村塾では町人や僧侶たちにも入門を許していました。

 時代は、ペリーが浦賀に来航し日米修好通商条約が結ばれた時代。この日米修好通商条約を時の大老 井伊直弼が勝手にアメリカと結んでしまったことに吉田松陰は激怒します。

 吉田松陰は、弟子達に幕府に対するテロを呼びかけますが、弟子たちは冷静であり、これを断りました。しかし、すでに幕府から目をつけられていた吉田松陰は1859年に江戸に送られ、小伝馬町の牢に入ることになるのです。

 吉田松陰は、取調べで老中、間部詮勝(まなべあきかつ)の暗殺計画や梅田雲浜の奪還計画などを自白し死罪となってしまいました。吉田松陰30歳のことです。

吉田松陰の略年表 

1830年 8月4日、杉百合之助の次男として誕生 
1834年 親戚の吉田家の養子になる(5歳)
1835年 養父が亡くなり、吉田家を継ぐ(6歳) 
1840年 藩主・毛利慶親に「武教全書」(兵学)を講義する(11歳) 
1842年 吉田松陰の叔父が「松下村塾」を開く 
1850年 九州、平戸に遊学。宮崎鼎蔵と知り合う(21歳)
1851年  東北視察の際、通行手形の発行が遅れたが、宮崎鼎蔵らとの約束を守るため手形なしで他藩に行き脱藩 (22歳)
1853年 ペリー来航を浦賀で見て海外渡航を決意(24歳) 
1854年  2度目の黒船来航。松陰は小舟で黒船に近づき渡航を求めるが断られ、その後自首し野山獄に入る(25歳) 
1855年 野山獄で獄囚に孟子を講義する(26歳) 
1857年 松下村塾を開塾(28歳) 
1858年 老中暗殺を企て幽閉投獄 (29歳)
1859年 幕府の命によって江戸に護送。伝馬町獄舎で死刑になる(30歳) 


 

 吉田松陰の言葉・辞世の句

諸君、狂いたまえ。

吉田松陰の言葉で一番有名な言葉。 

知は人たる所以を学ぶなり。

松陰27歳の時の言葉。「学問とは人はどうあるべきかを学ぶことである」という意味 

読書最も能く人を移す。畏るべきかな書や。

30歳の時に野村靖に宛てた書簡。「読書はもっとも人を変える。なんと書はおそるべきものだろうか。」

身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留置まし 大和魂

 
吉田松陰の辞世の句。処刑を前に詠まれたもので「身はたとえ朽ちても、魂だけは留めておきたい」という意味。

親思ふ こころにまさる親ごころ けふの音づれ 何ときくらん


両親に宛てた辞世の句。「子が親を思うよりも 親が子を思うほうが強い 処刑の知らせをどんな気持ちで聞くことだろう」と親の気持ちを心配している。 
 
松下村塾の門下生 
高杉晋作(たかすぎ しんさく)  松下村塾四天王といわれたひとり (病死・享年29)
久坂玄瑞(くさか げんずい)  松下村塾四天王 松陰の妹と結婚 (禁門の変で自害・享年25) 
吉田稔麻(よしだ としまろ)  松下村塾四天王 (池田屋事件で亡くなる・享年24)
入江九一(いちえ くいち)  松下村塾四天王 (禁門の変で自害・享年28)
伊藤博文 (いとう ひろぶみ) 初代総理
山縣有朋(やまがた ありとも) 陸軍大将、内閣総理大臣になる。
前原一誠(まえはら いっせい)  維新十傑のひとり。(維新後に萩の乱を起し刑死・享年43)
野村靖(のむら やすし) 入江九一の弟。神奈川県令や内務大臣になる。
品川弥次郎(しながわ やじろう)  内務大臣を努めることになる。
寺島忠三郎(てらしま ちゅうざぶろう) 禁門の変で久坂、入江と共に自害・享年22
山田顕(やまだ あきよし) 禁門の変や戊辰戦争では軍師として活躍。初代司法大臣。 
赤禰武人(あかね たけと) 第一次長州討伐のスパイに疑われ失脚。 第二次長州討伐で処刑(享年29)
玉木彦介(たまき ひこすけ) 松陰の従弟。高杉晋作に従い俗論派と対立し亡くなる。(享年25) 
松浦松洞(まつうら しょうどう) 今に伝わる松陰の肖像画を書く。(長井雅樂暗殺失敗で自害・享年26)


吉田松陰の著作 
幽囚録(ゆうしゅうろく) 外国船密航の動機などを記したもの 
士規七則(しきしちそく)  従弟の玉木彦介の元服祝いに贈ったもの 
講孟余話(こうもうよわ)  牢獄での孟子の講義の所感や意見をまとめた講義禄 
留魂録(りゅうこんろく) 松陰が弟子たちに宛てた遺書