歴史年代ゴロ合わせ暗記  

歴史年代ゴロ合わせ暗記白村江の戦いの原因

白村江の戦い! 

  
 白村江の戦い(はくすきのえのたたかい)とは、663年、朝鮮半島南西の白村江で日本・百済の連合軍VS唐・新羅の連合軍で2日間にわたって行われた壮絶な戦いです。

 では、
白村江の戦いについて、少し詳しく見ていきましょう。

 蘇我氏を滅ぼした
中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)らは、大化の改新を645年にスタート。国政の改革を進めていました。

 その頃、朝鮮半島では
高句麗新羅百済の三国時代が終わりを迎えようとしていました。中国の唐が新羅と手を組み、百済を攻め滅ぼしたのです。660年のことでした。

 「へぇ。でも日本とは関係ないね。」とも言っていられません。

 百済と日本は300年にも及ぶよしみがある上、このままでは、唐の圧力は日本にまで及びかねないと中大兄皇子は判断。百済復興へ手助けすると決意し、662年、大軍を百済に送り込みます。その数、27000と大盤振る舞いです。

 そして、663年。ついに決戦のときがやってきます。朝鮮半島、南西の
白村江にて日本・百済VS唐・新羅の戦いです。

 残念ながら、日本・百済連合軍は大敗。中国の歴史書によれば、「日本の船400艘は燃え上がり、煙は天を覆い、海は赤く血で染まった」と書かれていますから、相当な激戦であったのでしょう。

 と、ここで頭を抱え込んだのは中大兄皇子です。

 「やばい!本気で唐と新羅を怒らせちまった!このまま、攻めてこられでもしたら、ひとたまりもないぞ!ピーンチ!」

 そこで、北九州の大宰府(外交などを行う場所)を守る為に水城(みずぎ)と呼ばれる防衛施設や防人(さきもり)と呼ばれる兵を配置し、国をあげての防衛に努めました。

 ・・・が、結局の所、唐、新羅軍が日本に攻め込んでくることはありませんでした。

 百済を倒したからといって、朝鮮半島には、まだ高句麗が残っています。唐、新羅にしたら高句麗を攻略する方が先決。日本に攻め入るほどの余力はありませんでした。

 結局、「高句麗に攻め入っている間に日本にチョッカイでも出されたら、その方が面倒だ」と向こうから「仲良くしようよ」と和睦を求めれ、唐・新羅軍はその上で高句麗を滅亡させます。

 そして、676年。新羅は朝鮮半島を統一するのです。


白村江の戦いについて更に詳しく

大化の改新について

中大兄皇子について

防人って?