天智天皇(中大兄皇子)
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中大兄皇子(天智天皇)は、乙巳の変にて蘇我氏を滅ぼし、大化の改新といわれる政治改革を行いました。
661年に斉明天皇は崩御されますが、中大兄皇子(天智天皇)は即位することなく皇太子のまま政務に励みます。
663年には、朝鮮半島の白村江(はくすきのえ・はくそんこう)にて、友好国の百済を救うため唐・新羅の連合軍と争うことになりますが、日本は大敗してしまいます(白村江の戦い)。その後、日本は唐からの攻撃を警戒し、対馬、壱岐、筑紫などに防人を置き唐からの侵攻に備えました。また、水城(みずぎ)といって、筑紫に大きな堤を築いて水を蓄えたりしています。(しかし、結局、唐からの攻撃はなかった)
667年には、外国からの襲来に備えて、歴代の天皇が都を構えた大和の地から近江の大津宮に移しました。この大津宮にて中大兄皇子は正式に即位し天智天皇となりました(668年)。
実に20年以上も皇太子のまま政務を行っていた中大兄皇子ですが、なぜ即位するのをそれほど先延ばしにしたかについては、色々な説がありますが、そのひとつに暗殺を恐れていたという説があります。乙巳の変にて蘇我氏を滅ぼした中大兄皇子には敵が多くいたのは間違いないでしょう。天皇を頂点とする政治改革を進めていた中大兄皇子にとって、自身が天皇となり暗殺された場合、その政治改革が後退してしまうと考えたという訳です。
また、天智天皇は即位した668年に「近江令」を完成させ671年から施行されます。これは、後に「大宝律令」の基礎となる法典です。
669年に、乙巳の変にて共に蘇我氏を滅ぼした中臣鎌足が56歳でなくなります。天智天皇(中大兄皇子)は、亡き鎌足に「大織冠(だいしきのこうぶり)」という大臣の位を授けます。この大織冠は、最高の冠位であると共に古代、この位を授かったのは鎌足が唯一でありました。また、天智天皇は、鎌足に「藤原」の姓を授け、そのご藤原氏は長きに渡り繁栄していくことになります。
そして、671年、天智天皇46歳の時、亡くなるのですが、天智天皇は、亡くなる前に弟の大海人皇子を皇太子としていましたが、その後、自身の子である大友皇子も太政大臣という最高の官に任命します。いったんは、大海人皇子は、大友皇子に皇位を譲る素振りをみせるのですが・・・。
その後、この2人は皇位をめぐり内乱となっていくのです。(壬申の乱)
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