歴史年代ゴロ合わせ暗記  

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徳川2代将軍 徳川秀忠(ひでただ)


 
徳川秀忠:在職1605年〜162年 
 徳川秀忠(とくがわ ひでただ)は、徳川家康(いえやす)の三男として生まれ1605(慶長10)年に徳川2代将軍となりました。

 しかし、なぜ三男であった秀忠が将軍職を継ぐことが出来たのか?長兄の松平信康(まつだいら のぶやす)は自害。また次兄の結城秀康(ゆうきひでやす)が豊臣秀吉の養子となったということもありましたが、それでも6男の松平忠輝(ただてる)など将軍になるにふさわしい優秀な人物はいたはず・・・。

 それでも家康は、自らが築き上げた地盤を継承し、発展させるには堅実で生真面目な性格の秀忠がふさわしいと判断したようです。

 秀忠が側室をもたなかったというのも有名な話。秀忠の正室は、織田信長の妹のお市の方と浅井長政との間に生まれた3女のお江という人物。このお江に秀忠は、頭が上がらなかったといわれています。とはいえ、秀忠がもし傲慢な性格であったとすれば、信長は本能寺の変で亡くなっていた訳ですので、側室も持ったでしょうし、お江との間が不仲になったとしても己の主張を貫いたことでしょう。しかし、それをやらず、妻を思いやった姿にも秀忠の堅実な性格が垣間見れます。

お江 3度目の結婚で秀吉の命にちょり
秀忠の正室となる。


 関ヶ原の戦いでは上田城攻めに時間をとられ決戦に間に合わないという失態を演じマイナスのイメージもつきまとう秀忠ですが、家康の後を継ぎ、大名統制、御三家の創設、朝廷や公家の工作など実はかなり業績も大きいのです。

 なお、徳川秀忠は、昭和33年に行われた徳川家墓所の発掘調査により身長は158センチだったということがわかっています。さらに腕やすねには、未だ黒々とした毛が残っておりかなり毛深い人物であったようです。