歴史年代ゴロ合わせ暗記  

歴史年代ゴロ合わせ暗記桂小五郎(木戸孝允)
   

桂小五郎(木戸孝允)

 

 桂小五郎(木戸孝允)は天保4(1833)年に長州藩医の長男として生まれ、桂孝古の養子となります。17歳の時に藩校の明倫館で吉田松陰から山鹿流兵学を学びました。

 桂小五郎といえば、3歳ほどしか年のはなれていなかった松陰を兄のように慕い、また松陰も桂小五郎を弟のように可愛がっていたというのは有名な話ですので松陰の松下村塾の門弟と思われがちですが、そうではないんですよ。

 その後、桂小五郎は江戸に遊学し斉藤弥九朗道場で剣術を学び塾頭にまでなります。この斉藤は剣術のみならず、儒学や兵学などにも詳しく、尊王攘夷思想(外国人を追い出して天皇中心の統治体制を理想とする)をもっていたので、桂小五郎の攘夷の考え方は、この斉藤弥九朗や吉田松陰の影響もあったのであろうと推測できます。

 ちなみに、桂小五郎は塾頭にまでなっていますので剣術の腕も超一流。幕府の武芸訓練機関である講武所の総裁の直弟子を破ったりもしています。近藤勇からも「恐ろしい以上の存在、手も足も出なかった」といわせるほどの実力者であったといわれるほど。ただし、”逃げの小五郎”の異名ももっており、真剣を用いたという記録はなく、争いを避けて逃げるために変装までしたともいわれています。まぁ、本当に強い人は無駄に争うことをせず、逃げられるなら逃げるんでしょうね。

 桂小五郎は、多く江戸で過ごし他藩の優秀な人材と交流を深めていきますが、これが後に薩長同盟や後の日本での重鎮となる礎を築くことになります。

 また、吉田松陰は塾生達が江戸に出る際は、小五郎へ手紙を書き彼に世話を頼んでいた為、高杉晋作や久坂玄瑞など多くの塾生が小五郎の世話になっています。

 とはいえ、この桂小五郎は強硬な攘夷論者ではなく、長州藩単独での外国船への砲撃や禁門の変などには慎重論を唱えていました。

 そして、池田屋事件、禁門の変などで多くの長州藩士が亡くなると長州藩を代表する人物は数少なくなります。そんな中、桂小五郎は1866年、西郷隆盛、大久保利通らと薩長同盟を結び倒幕を実現。この西郷、大久保、桂の三人は「維新三傑」と言われ倒幕維新に尽力したひとりに数えられるようになりました。

 明治政府では五箇条の御誓文の起草や版籍奉還、廃藩置県を実行。そして1877年、45歳で病気のためこの世を去ることになります。

 ちなみに、桂小五郎は8歳までは和田の姓で8歳以降が桂。木戸の姓は第二次長州討伐の時に長州藩、藩主から賜ったものです。小五郎という名前なので五男だと思われることもありますが関係ありません。小五郎といのは、和田家の先祖の名前で通称ですね。まぁ、幕末には命を狙われていましたので、その他にも多くの名前をつかっていましたよ。