明治6年の政変
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明治6年の政変とは、鎖国政策をとる朝鮮に対して武力で開国を迫るという征韓論を主張した西郷隆盛、板垣退助らと国内改革が優先であるという主張をする大久保利通、木戸孝允らが対立し、結局は西郷ら征韓論を唱えたものたちが敗北。西郷ら5人が辞職することになる出来事です。
では、この明治6年の政変について少し詳しく見ていきましょう。
明治六年の政変までの過程
江戸時代が幕を閉じ、明治新政府による本格的な政治は急ピッチで進められていきます。1871(明治4)年には廃藩置県を行い中央集権体制を固めた明治新政府は岩倉具視を中心とした使節団を海外に派遣します。メンバーは木戸孝允、大久保利通、伊藤博文といった豪華メンバー。目的は、幕末に結ばれた不平等条約の改正の予備交渉と海外視察です。(岩倉使節団)
ですが、不平等条約の改正の予備交渉は、最初に訪れたアメリカにてほぼ挫折・・・。その後は、イギリス、フランス、ドイツ、ロシアに向かい政治体制や産業の発展状況などの視察をしていきます。
その間、日本の留守を任されたのが西郷隆盛、板垣退助、江藤新平らです。
当時の日本と朝鮮は国交断絶状態にありました。日本は国交回復を呼びかけますが、朝鮮側は拒絶・・・。留守番組は朝鮮がそういう態度なら武力で開国させようといった考えに向いていきます。これが征韓論です(新政府の近代化政策に不満を高める士族たちの目を海外に向けさせる狙いもあったともいわれています)。
2年の海外視察を経て帰ってきた岩倉使節団。帰国した彼らは、西郷らの征韓論に強く反対します。海外で日本との差を痛感した彼らは、まずは、国内の改革が優先であり、今の日本が海外派兵なんてしたら欧米列強の国々は黙っていないだろうと主張しました。
これで明治政府は2つに分裂。留守番組であった西郷、板垣らは政府を去ることになります。
明治六年の政変後の板垣退助
明治政府を去った板垣は、現在の政府のメンバーは倒幕に貢献した藩の代表者ばかりで藩閥政治になっていると批判。選挙を行い国民から選ばれた代表による国会を作り政治を行うべきであるとして民選議院設立建白書という意見書を政府に提出。そして、国会開設を政府に要求する自由民権運動を行っていきます。
明治六年の政変後の西郷隆盛
西郷の方は故郷の鹿児島へと帰りました。旧薩摩の士族らは大喜び!地元の英雄が戻ってきましたからね。西郷は鹿児島に私学校を作り若者の教育に努めていきますが、当時は、士族の反乱がいくつも起こっていました。西郷らと同じように明治政府を去った江藤新平らによる反乱などがそれです。
西郷も本意ではないものの、やがて大きな流れに飲み込まれていくことになります。西郷を慕う鹿児島の士族らが政府の武器庫を襲ってしまうんですね。敗北はわかっていながらも西郷は慕ってきた者たちを裏切るわけにもいかず、兵を起こします。これが西南戦争です。ほぼ九州全域を舞台にした8か月にわたる内戦は西郷の自害で幕を閉じることになります。
明治六年の政変後の大久保利通
西郷や板垣らが去った政府の中枢に立つことになったのは、大久保利通でした。国内改革が優先であるとして征韓論に反発した大久保は有言実行!内治を進めるために内務省を設置し、自ら内務卿となります。内務省っていうのは、戦後解体されましたが地方行政、警察、勧業、交通通信などを一手に担う巨大官庁です。
そして、欧米諸国の見聞を生かして本格的な国づくりを目指すことになります。当時、大久保利通が政府に申し立てをした文章があります。わかりやすいように要約し、現代風に直して解説しますね。
1.政体には、君主政治、民主政治、君民共治(立憲君主制)がある。
2.民主政治は、天下を一人で私せず、広く国家全体の利益をはかり、人民の自由を実現し、法律や政治の本旨を失わず、首長がその任務をちがわぬようにさせる政体であって、実に天の理法が示す本来あるべき姿を完備したものである。アメリカをはじめ、多くは新たに設立された国、新しく移住した人民によって行われている。
3.君主政治は、蒙昧無知の民があって、命令や約束によって治められないとき、ぬきんでた才力をもつ者が、その威力、権勢に任せ、人民の自由を束縛し、その人権を抑圧して、これを支配する政体で、一時的には適切な場合がある。
4.イギリスは、土地、人口の規模が日本とほぼ同じであるが、その国威は海外に振るい、隆盛をきわめている。それは3200万あまりの人民がおのおの自身の権利を実現するために国の自由独立をはかり、君長もまた人民の才力を十分に伸ばす良政を施してきたからである。
現代文にしたところでちょっと難しいですね。
まぁ、当時の大久保利通は、民主政治を高く評価しています。2のところで「実に天の理法が示す本来あるべき姿を完備したものである」と書いてありますからね。当時のアメリカは南北戦争が終わった直後で経済的にも政治的にも急成長を遂げている時期でしたので、そのアメリカの姿を見て日本もそうなるべきだと感じたのかもしれませんね。
3では、君主政治を「一時的には適切な場合がある」としています。そして、4にて日本と同じような土地、人口で発展していたイギリスの政治をべた褒めしていますね。
大久保が目指す政治とは、将来的にはアメリカのような民主政治を目指すのが望ましい。しかし、長く幕府のいいなりになってきた日本では民主政治は時期早々。一時的には強いリーダーが国を引っ張っていく形も適切であろうが、イギリスのような君民共治こそが日本の発展にはもっともよいと言っているんですね。
そんな大久保利通ですが、1878年に不平士族に襲われて49歳の若さで亡くなってしまいます。
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