秦の始皇帝
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秦の始皇帝といえば、「戦国の七雄」といわれた燕、趙、斉、魏、韓、楚の6国を滅ぼし、中国史上で初めての統一王朝を打ち立てたことで有名ですね。
"ZH-?国七雄地?" by Philg88 - 投稿者自身による作品. Licensed under CC 表示 3.0 via ウィキメディア・コモンズ.
始皇帝は、「郡県制」による中央集権化や貨幣、文字、度量衡の統一などを行い、また万里の長城の増改築、兵馬俑などで知られる自らの陵墓を建設しました。
では、この始皇帝について少し詳しく見ていきましょう。
始皇帝の本名は、嬴政(えんせい)といいます。字が難しいですね。難しいので以後、政と記載しますね。
この政は、趙という敵国で生まれました。なぜって?当時、趙と秦は休戦協定を結んでおり、その人質として政の父親(子楚)が趙に送られていたんですね。
しかも、政の父親は王の血筋を引いてはいるものの「まぁ、王様になれる可能性はないだろうなぁ」って立場。さらに、秦はたびたび協定をやぶって攻撃を仕掛けたりするもんだから、趙での子楚の立場は、もう散々だったんです。
そこに現れたのが韓の呂不意(りょふい)という人物。彼は、商人なんですが超~お金持ちで超~野望が大きかったんです。だらかお金を使って「俺がこの子楚をなんとしても王様にしてやるぜ!そうなれば秦の国は実質、俺のもの・・・」って考えるんです。
呂不意は己の野望の為なら、もう何でもするんですね。自分の彼女でさえ、子楚に譲っちゃうほど。そして、その呂不意が譲った彼女と子楚の間に生まれたのが政だったんです。
ただ、この政の母親は子楚の元に行く前にすでに妊娠していたという説もあり、政の本当の父親は呂不意だったのではないか?ともいわれていますよ。
さて、この呂不意の野望ですが、見事、子楚を趙から脱出させることに成功。しかし、この時、妻子まで連れて行くほどの余裕がなかったため、政と母親は趙に置いていかれることになります。そりゃ、もう2人は立場ないです。父親逃げちゃって、母親といっしょに敵国に置いていかれちゃうんですからね。いつ殺されてもおかしくないくらいです。
その後は、子楚が太子に任命されると母親と政はやっとのことで秦に送り返されることとなります。その後は、呂不意の狙い通りに子楚が王に即位。呂不意は丞相とう立場となります。
ですが、この政の父親は即位してわずか3年で亡くなってしまうんですね。そして、13歳だった政が王位を継ぐことになります。
しかし、この政と呂不意はあまり仲が良くないんですね。「政をうまく操ってやろう」と企む呂不意と「そうはなるものか!」と反発する政。
やがて、事件が起きます。実は、呂不意と政の母親は、まだ繋がりがあったんです。しかし、呂不意としては、そんなスキャンダルは困る。かといって、すでに王の母親となっている彼女を無視するわけにもいかない・・・。そこで、呂不意は嫪毒(ろうあい)という男を彼女に紹介します。そして、政の母親と嫪毒の間に2人の子供ができてしまうんです。
その後は、歴史書によって伝える内容が違いますが、嫪毒がクーデターを起こし失敗したとか、呂不意が嫪毒の子を政にかわって王に据えようとしたとか・・・。
まぁ、結果的には、嫪毒もその子供たちも政によって殺されてしまうことになります。
この事件の裏に呂不意がいることも、すでに明らかな事実。しかし、呂不意は未だ力を保持したままだったんですね。
しかし、3年後。ついに政は呂不意に蜀へ行け!と書簡を渡すことになります。そして、蜀へ行ったところで死は免れぬだろうと悟った呂不意は自ら毒を飲んで自殺することになるんですね。
さて、その後の秦は、「遠交近攻」の外交戦術や内政の充実により紀元前221年に中国を統一。政は、王のさらに上の存在として自らを皇帝(始皇帝)と名乗ることになるのでした。
秦の都は、咸陽という場所。政治体系は、全国を36の郡に分け、郡の下には県を置いて、そこに中央から官吏を派遣すると いう郡県制を用いました。また、度量衡や文字を統一。度量衡っていうのは、貨幣や重さを統一させたってことですね。地方でこれがバラバラだといろいろ面倒
ですからね。
丞相には、李斯(りし)という人物を任命しました。この李斯っていう人は法家の政治家なんですけど、法家以外の学問を禁止、農業や医学や占いの本など実 用書以外の本はみな焼いてしまい、およそ460人の儒者を生き埋めにしたといわれています。
また、始皇帝は首都、咸陽に「阿房宮(あぼうきゅう)」という大宮殿の造営を行ったり(結局、始皇帝が生きているうちには完成せず)、北方遊牧民、匈奴
の侵入に備えて万里の長城の増改築を行うなど大規模な土木事業を行います。
でも、こういった大規模な事業には民が駆り出されることになるんですね。命がけで働かされて、民の不満も募っていくことになるんです。
年を重ね、すべてを手に入れた始皇帝が最後に欲したのが不老不死でした。方士といって占い師のような人たちに不老不死の薬を手に入れるように命令を下す
のですが、その中で有名なのが徐福(じょふく)という人。徐福は、不老不死の薬を求め、大勢の家臣やら食料やら多額の資金を与えられ旅立つのですが、結局
戻ってきません。彼がたどり着いたのは日本ではなかったのか?なんて話もあり、日本各地に徐福にまつわる伝説も残っていますよ。
また、別の方士から不老不死の薬として水銀を始皇帝は飲まされていたともいわれています。水銀なんて毒ですよね。飲んだら不老不死どころが命の危険
が・・・。そんなこんなで始皇帝は行幸の途中、50年の生涯を閉じることになるのでした。
始皇帝の死の翌年には、反乱が起きます。有名な陳勝、呉広の乱です。始皇帝の死後も続けられた大規模工事などの苦役についに農民が立ち上がったのですね。
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