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清水宗治の切腹と辞世の句

  
 
 
 「浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の名を高松の 苔に残して」

 秀吉による水攻めにより、人工の湖となった高松城。その中に小舟を浮かべ、切腹をした
清水宗治。武士として名を高松の地に残したいという宗治の願いが込められた辞世の句です。

 この清水宗治は、天文6年(1537年)備中国に生まれました。

 当時の宗治の立場は、高松城城主、石川氏を旗頭として仰ぐ、一地方の領主でしたが、永禄8年(1565年)石川氏の相次ぐ死により、清水宗治が高松城の城主となります。その後は郡山城主の毛利氏を盟主として仰ぎ、備中国内の支配力を強めていきました。

 そんな中、信長の家臣、秀吉が備中へと攻めてきます。「人たらし」と言われた秀吉は、単に武力のみで攻撃してくるようなことはしません。なるべく、兵力を使わず城を落とす方法を考えます。そこで、清水宗治に対して「備中と備後の国をお前にやるから、織田家の仲間になれ」と誘いを入れます。これは、当時、備中の半分しか統治していなかった宗治にしたら、かなりのうまい話。しかし、毛利氏には恩があると、これを断り、ついに秀吉の攻撃にあいます。(秀吉の高松城攻め

 とはいえ、高松城は難攻不落といわれた城。これに秀吉は水攻めという奇策にでます。城ごと水に沈めてしまえというのです。

 秀吉は多額の金を使い堤防を築くと川の流れを城へと引き込みます。ちょうど、梅雨時ということもあり、秀吉の作戦は見事成功。みるみる内に城の周りには人工の湖ができあがり、城は孤立していきました。

 城の主、清水宗治は、毛利氏に応援要請を出し、毛利氏も主力を率いて救援。城を助けるには、堤防を壊す他ありませんが、秀吉が簡単にそうさせてはくれません。

 そこで両者は和睦の道を探ります。秀吉の提示してきた条件は、”毛利氏の領土半分を渡せ”というものと”高松城城主、清水宗治の切腹”と強気の姿勢。しかし、その時、時代を揺るがす大事件が起きます。本能寺の変により、秀吉の主君・信長が討たれてしまったのです。

 秀吉にしてみれば、もはや高松城攻略どころではありません。

 和睦の交渉条件を一気に緩め、しかし、それでも清水宗治の切腹だけは譲りませんでした。

 秀吉に信長死すの一報が入ったときは、まだ毛利サイドには、信長の死は知られていません。万が一、知られてしまったら、後ろ盾をなくした秀吉に毛利軍が襲い掛かってくるのは明白。秀吉軍が高松城を去った後でも信長が死んだことを知れば、毛利は追撃してくるでしょう。それが、秀吉にとっては一番困る。

 しかし、城主、清水宗治が切腹をした後であれば、命をはって和睦の道をとった宗治の死をふいにするような行動は毛利氏としても取りづらいはず・・・。

 秀吉は毛利側へ続く道を遮断し毛利軍へ信長の死を伝える使者が来るのを防ぎ、宗治の切腹を見守ります。水攻めにより生まれた湖、そこへ小舟を浮かべ、命を救われた籠城兵5000、秀吉軍3万、毛利軍4万が見つめる中、清水宗治は短刀で腹を十文字に切り裂き絶命しました。

 秀吉は、清水宗治を「日本一の武辺(ぶへん)」と賛辞を送り、後に宗治の息子、景治を大名に取り立てようと誘いますが、毛利の家臣として仕えると断ったといわれます。