歴史年代ゴロ合わせ暗記  

歴史年代ゴロ合わせ暗記中国の歴史唐の時代


唐の時代

 
 隋の将軍、李淵(りえん)は隋を倒すとを建国しました。618年のことです。これ以降、唐は約300年にも渡り中国を支配していくことになります。

 まず初代皇帝が
李淵(高祖)在位618年〜626年、2代目が李世民(りせいみん・太宋)在位626年〜649年、3代目が李治(高宗)在位650年〜683年と続いていきます。

 唐の統治の基礎が出来上がったのは、2代目李世民のころ。彼は、兄を殺害し即位すると異民族を攻撃し領土を拡大していきます。また南海諸国には朝貢させて唐の権威を周辺諸国へ見せつけました。

唐の2代皇帝 李世民


 さらに、国内の諸制度を整備するなどし、300年も続く大唐帝国の基礎を作り上げたわけですが、その李世民の時代の治世は
貞観の治(じょうがんのち)といわれ君主政治の理想として称えられます。

 ちなみにこの李世民と臣下との政治問答をまとめた「貞観政要(じょうがんせいよう)は、帝王学の書として日本でも愛読さることになるのでした。

 そして3代目李治の時代には、隋の時代に失敗した高句麗の征服にも成功し広大な領土を手に入れることになります。この征服した領土に対して唐の行った政策は、手に入れた領土の異民族に対して中国の法律や慣習を強制はしないというものでした。これを
羈縻政策(きびせいさく)といいます。羈縻とは牛や馬を繋ぎとめておく縄のことですが、繋ぎとめておくけれどもある程度の自由は残しておくといった意味合いですね。

 しかし、この李治(高宗)の后だった
則天武后(そくてんぶこう)が、高宗の死後帝位を奪い取って自らが帝位につき国号を「周」と改めるという事件がおきます。これを通称「武周革命(ぶしゅうかくめい)」といいます。則天武后は中国史上唯一といわれる女帝ですね。

 この事件により唐王朝は一時的に中断となります。周の時代は690年から705年までのわずか15年間。この期間、唐の治世は中断し、混乱も起こりますが、それを治めて登場したのが
玄宗(げんそう)です。2代の李世民の時代を貞観の治というのに対して、玄宗の時代の治世を開元の治(かいげんのち)といいます。
この時代は、唐の中でも文化的にもっとも栄えた時代といっていいでしょう。杜甫(とほ)、李白(りはく)、王維(おうい)などの詩人が登場したのは、この時代です。

 しかし、文化的には栄えた時代でありましたが、初期の唐の政治や決まりごとが徐々に崩壊していく時代でもありました。

 まずは農民。この時代になると農民の間では貧富の差が拡大していきます。なぜかというと、農業の生産能力が向上していったのが大きな要因です。農業の生産能力の向上はもちろんいいことなのですが、そうしてあまった食べ物は売りに出されます。しかも、それはお米だけじゃなく、お茶やサトウキビや漆などの高級品もあったので一発当てた人では農民の中にもお金持ちが出てくるのです。逆に失敗した人は、もはや税すら払えずに逃げ出す人も出てきます。

 逃げ出して農民がいなくなった土地からは税がとれない。また、戦争などの際にも徴兵ができないといった具合に軍事、財政で唐のピンチがやってくるのです。

 では軍事的にピンチとなった唐はどういった政策を打ち出したかというと、「じゃ、お金をばらまいて兵を集めればいいじゃないか」というものでした。こうして集めた兵は指導を受けながら辺境警備に向かうことになります。国境付近を守らせたわけですね。

 この兵を束ね辺境警備にあたった軍人を
節度使(せつどし)といいます。しかし、国境付近の守りということは、当然中央から離れているわけで皇帝らからは目が届かない。それをいいことに彼らは、好き勝手に動き出し始めるのです。そして彼ら節度使は755年に安史の乱(あんしのらん)を起して唐に大ダメージを与えることになります。

 節度使の反乱はなんとか鎮圧した唐ですが、再びピンチがやってきます。

 軍事と同時に財政面でもピンチとなっていた唐は、税法の改正や国家による
塩の専売にて財源を確保しようと努めます。8世紀末以降、塩を従来の何十倍という価格で売り続けた唐。しかし、時が経つにつれ、塩の密輸人というのが現れ始めます。彼らは、国家の目を盗み、農民らと連携して塩を密かに売り続ける。そんな彼らの中に農民を指導して国家に反乱を起そうと動き出す人々がいました。彼らの起した乱を黄巣の乱(こうそうのらん)といいます。875年の出来事です。

 この黄巣の乱は、幹部の
朱温(しゅおん)という人物の裏切りにより鎮圧されることになりますが、もはや唐の権威は失墜します。

 そして、この裏切りを見せ皇帝側に寝返った朱温は、帝より全忠という名を貰い、
朱全忠(しゅぜんちゅう)と名を変えることになります。彼はその後、節度使となると勢力を伸ばし、皇帝を殺害。そして新たに13歳の皇帝をたてると、この帝にも退位を迫り、ついに907年唐は滅亡へと追い込むことになるのでした。

隋の時代

五代十国時代