日本絵画の歴史において、独自の特徴が表出したのは、平安時代の頃である。中国・唐時代の「唐絵(からえ)」の影響を受け、日本独特の文化の中で「やまと絵」として発展していったことが起点にあると考えられる。「やまと絵」には、日本国有の風土、民衆の身近な生活、物語や和歌の世界、寺社の由来、仏画などが描かれ、江戸・明治の時代まで広く支持されてきた。「やまと絵」は、遠くのものを同じ大きさで上へ上へと積み重ねて描かれていく技法である。遠いものはどんどん上方に伸びてくため、日本の掛け軸が、縦に長い理由の一つともいわている(佐藤,1993 (1))。
「やまと絵」を分類すると、画題は3つあるといわれている。春夏秋冬を描く「四季絵」、1月から12月までの景色を描く「月並絵」、そして名所の景色を描く「名所絵」とされ、襖絵や屏風絵という形で残されている(樋口,2004(2))。
その後、10世紀末頃から、やまと絵と詞書(文書)によって構成された「絵巻物」が製作されるようになった。この絵巻は長い画面に描かれ、その鑑賞の仕方も、右から左に見終わった部分を巻き取りながら、これから見る部分を巻き出すという特殊なものである。
このような特殊性が「吹抜屋台」という絵画技法を生んだ。「吹抜屋台」とは、絵巻の画面展開が地平を斜め上から見下ろす構図をとって描かれている。そのため、舞台が室内であったとき、その様子を表せないので、建物から天井を取り払って描く表現法である。
屏風や襖絵には、装飾性の強い花鳥画で描かれるものがある。その時、「土坡(どは)」という類型化された形態で意匠化されて描かれることが多い。土坡とは、小高く盛り上がった地面のことで、なだらかなカーブで描かれる地面の起伏である。その部分を、極端に単純化され画面の装飾効果を高めている(日高,2003 (3))。
このように、吹抜屋台や土坡の表現に見られるやまと絵の技法は、写実的とはいいがたく、装飾的、平面的にデザイン化されたものであった。
平安後期から鎌倉時代には、「白描(はくびょう)」という墨のみを用いたやまと絵が流行した。白描はあくまでも描線を主体とした表現であり、色彩を排除して墨一色で完成することを目標としている。代表作として『鳥獣人物戯画』などが挙げられ、現代の漫画に繋がる作品と考えられる(日高,2003 (3))。
室町時代には、先の鎌倉時代に中国から伝わった禅宗の隆盛に伴い、水墨画が流行した。水墨画では山水画や花鳥画が描かれるが、これらもまた中国で発達し、日本に伝わった絵画である。現実の風景の再現を意図した作品もあるが、写実による山岳、樹木、岩石、河川などの風景要素を再構成した「創造された風景」「心象風景」が多い。水墨画の墨という限られた色彩の中で、自らの精神を表現するという特質が、禅宗に基づいていると考えられる。中国や日本において、水墨画の画人に禅僧が多いということも、発達していった一因であるといえる。
この分野の絵画において、絵画に描かれるさまざまなモティーフは、実物を見るというよりも、すでに存在する別の絵から写しとられることのほうが多かった。画家の大部分は、手本になる絵を丁寧に模写することで画技を身につけた。
水墨画は、画家が実際に見た光景を写し描いたものと考えられがちであるが、実際に、日本で写生やデッサンが、絵画の基本に据えられるようになったのは、近世以後である。
桃山時代、応仁の乱を経て幕府や朝廷の権威は失墜し、商人中心の桃山文化が花開いた。この時代は、狩野派や長谷川等(とう)伯(はく)という多くの優れた絵師たちが輩出された時期である。
ここで見られる襖や屏風に描かれたパノラマ的な山水画や花鳥画は、水墨画と同様に、写実的に現実を再現した絵画ではなかった。個々のモティーフを違和感なく組み合わせ、実際の光景のようにバランスよく構成されたものである。画家達は完成された中国の古い山水画から、それを学んだのである(日高,2003 (3))。
江戸時代に入ってからも狩野派の活躍は続き、江戸幕府の御用絵師になった。以来、狩野派は全国にその流派の絵師達を輩出していった。これに対抗する形で、琳派などの絵師たちにも活躍の場が与えられた。琳派とは「光琳派」「宗達光琳派」の略で、その絵画の特色はデザイン性にあり、着物の柄のように洗練された画風と、平面化された画面によくあらわれていると言える。俵屋宗達(?-1640)は琳派の祖であり『風神雷神図屏風』の作者として有名である。宗達の後は尾形光琳(1658-1716)が活躍し、絵画だけにとどまらず工芸・陶芸の分野においても才能を発揮し、特に蒔絵を得意とした。
またこの頃、中国やオランダより伝来した遠近法や明暗法を用いた絵画に触発され、「写生画」といった分野も描かれるようになった。円山応挙(1733-1795)は、日本における写生画の祖とも言える人物である。彼の作品は、貴族や豪商を中心に幅広い層に受け入れられ、狩野派をも凌ぐほどの活躍を見せた(4)。
江戸時代は、町人文化が繁栄し、版画という印刷技術が導入されたことも伴い、絵画は民衆の身近なものとなっていった。それが浮世絵である。それまでの絵画は特権階級のものであり、寺社や城、貴族や豪族の邸宅を、襖絵や屏風絵として装飾されるものであった。江戸末期、浮世絵の作品は海外に渡り、西洋から多大な評価を受けた。浮世絵は、日本文化の水準の高さを西洋に伝え、フランスを始めとする西洋美術に大きな影響を与えた。
【参考文献/引用図版】
(1)佐藤 康邦 著「絵画空間の哲学 -思想史の中の遠近法-」三元社 1992.3
(2)京都大学大学院 樋口忠彦教授 講演 「やまぐち景観セミナー基調講演『日本人の景色』」2004.3
(3)日高 薫 著「日本美術のことば案内」小学館 2003.1
(4)財団法人京都古文化保存協会 HPサイト「京都の文化財」2005.12 http://www.kobunka.com/
(【図 1〜6)日高 薫 著「日本美術のことば案内」小学館 2003.1
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