はじめに
現在、心理治療の世界では、芸術療法と呼ばれる心理療法があり、芸術が心の病の治療として有効であることが確認されている。しかし、その芸術がもつ創造性自体が、精神病理に深く関わる側面を持ち合わし、これまで多くの創造者がその病の研究対象とされてきた。
その中で、創造者自身になんらかの精神変調が認められる場合、創造者の身内や身近な者による影響が見られることがある。
筆者はその例として、女流彫刻家カミーユ・クローデル(Camille Claudel, 1864-1943)の創造と病理過程を取り上げ、本人を取り巻く他者の影響が、芸術という創造性を生みだす無意識にどういった作用があるのか、また病理にどのように作用するのかを考察していく。
第1章 創造と精神病理 ――――――――――――――――――――――――――
ユング(Jung,C.G)は「集合的無意識」に重点をおき、ここから芸術を生みだす力を説明しようとした。この集合的無意識は、人間の「無意識」の中で、人類一般に共通する層にあり、神話的なモチーフや形象から成り立っている。芸術もこの集合的無意識と結びつくことによって、人類一般に共通のものとなるという(加藤,1958(1))。
ユングのこの理論は、芸術家や作家という創造者の病理を研究する病跡学や表現精神病理学という学問の中でも、活用されてきた。
本章では、そのユングの理論に基づいて、カミーユ・クローデルをどのような視点から考察していくかを述べていく。
●集合的無意識と芸術
1. 芸術とは
ユングによれば、芸術とは集合的無意識からの創造物であり、その時代や社会の文化的規範に基づくとされている。元始では、宗教の象徴やその儀式などから芸術が生まれ、その象徴物を作った人物は注目されず、神が作ったものとして存在した。しかし、西洋において個人主義が確立すると共に、個人の創造性が高く評価されるようになった。カミーユ・クローデルは、ちょうどその時代に存在した彫刻家である。西洋美術が最も発展した時代のひとつであり、印象派、キュービズム、シュールレアリズム、アールヌーボ、抽象派、ダダイズムなどあらゆる様式が誕生し、著名な芸術家が数多く誕生した時期であった。この時代の美術界において、人の模倣や酷似では優れた芸術として評価されなかったと筆者は考える。よって、芸術家は常に新しい企てを模索し、なかなか越えられない壁にぶち当たったことであろう。新しい企てとは、その時代の文化的規範から逸脱したものを表現することである。ユング派の分析家ノイマン(Neumann,E)によると、この時創造者の内的世界での文化的規範は崩壊し、創造者は世界が解体するような体験をしているという(ノイマン,1980(2))。創造者の内的世界では、芸術として表現するまでに、多大な心的エネルギーの流れが変化すると筆者は考える。
2. 創造と退行
ユングは、ノイマンのいうような芸術家の体験の心理状態を「退行(regression)」という言葉で説明している。
深層心理学の初期の時代においては、「退行」は神経症的な状態を説明する概念として用いられ、発達段階の低い方へと「退行」するとして、マイナスの評価に結びつくものであった。ユングは「退行」を、心的エネルギーが自我から無意識の方に向うことと考え、創作過程にも生じるとした。
創作過程においては、自我によってそれまで用いられていた心的エネルギーが退行し、自我は一時的に弱体化するが、退行した心的エネルギーが無意識内に進行(progression)を始める。そのときに、無意識内の内容が意識化されイメージとして把握される、とユングは考えた。このように、「退行」には病的退行と創造的退行があるとし、退行には肯定的側面があることを指摘した。
しかし、偉大な創造者の中に、この退行の状態が病気の範囲内に入ることが起きる場合がある。精神分析学者エレンベルガーは、それについて「創造の病(creative illness)」という概念を提唱し、以下のように説明している(河合,2000(3))。
・ある観念に激しく没頭し、ある真理を求める時期に続いておこるもの。
・抑うつ状態、神経症、心身症、果てはまた精神病という形をとりうる一種の多形的な病である。それは軽快、悪化を繰り返すが、その期間中、当人は自分の頭を占めている関心の導きの糸を失うことは決してない。
・この間に病とともに正常な社会的活動が両立されているときもあるが、その人は完全な孤立感に悩む。
このように、創造物として表現されるまでに、創造者は孤独で危険な状態にあるということがわかる。
3. 芸術作品から
このような「創造の病」を体験した後に、創造者は作品としてそれを表現しようと努力する。ノイマンは、人間が芸術として生みだすものは、自分が現実生活をしている外的世界との関係と、内的な元型の世界とが同時に表現されていると述べている。元型とは、集合的無意識の中に存在すると仮定された概念である。人間のこころの最も奥深くに存在する、人間に共通した基本的な表現型である。それ自体は見たり感じたりできない、形のない心理的な構造である。それは人間が形作る芸術のなかで表現され可視化される。
このように、「退行」を経て「創造の病」を経験した芸術家によって表現された作品から、芸術家の病理を読み取ることが可能であると筆者は考える。そのようにして体系化された学問が、パトグラフィーや表現精神病理学といわれるものである。筆者が、この論文でカミーユ・クローデルの病跡や作品を紐解いていくために必要とされる方法である。
●パトグラフィーと表現精神病理学
1. 歴史的背景
パトグラフィー(病跡学・病誌学=Pathographie)とは、20世紀初頭ドイツの精神医学者メビウス(Mobius,P.J)によって定義され、優れた芸術家や作家の分析研究のために発展していった学問である。ヤスパース(Jaspers,K)は、1913年の著書の中で、対象人物の生涯や精神生活、生活、創造性、病気などについて、精神医学的、臨床心理学的な観点から事例的に研究し、精神病理学的に興味ある精神生活の側面と、人間の創造性にとってのその意味を明らかにすることを目的とすると論述している(福島,1981(4))。現在では、一般的な病者の創造活動にも注目し、芸術療法に生かすように研究視野は拡大している。
パトグラフィーの中で、表現病理を中心とした分野を表現精神病理学(Psychopathology of Expression:わが国では表現病理学と略されることがある)という。精神病・神経症患者の表現した描画や造形作品を考察することによって、患者の病理を探り治療上の参考にもする学問である(徳田,1986(5))。
1950年、第1回世界精神医学学会で、精神病患者の絵画展示が行われ、ヴォルマ(Volum,R)がそれを「芸術の精神病理学」(L’art psychopathologie)として統括した。その後「表現精神病理学」の国際学会が開催されるようになり、わが国でも日本芸術療法学会が1969年に設立し研究が続けられている(徳田,1978(6))。1970年後半まで、パトグラフィー(病跡学)と表現精神病理学は同じ学会であったが、それ以降、独自の道に分かれ、日本でも病跡学会と芸術療法学会は独立した組織をもって活動している。
2. 方法論
さて、パトグラフィーを用いて、実際にどのようにして個々の芸術家の創造性を探求していくかである。徳田がいくつかの視点を見出しているので、それをあげてみよう(徳田,1986(5))。
- 記述的・症候論的方法。すなわち、その芸術家がどのような疾患に悩み、その病理がどのような型でその芸術家の人間としてのあり方や作品に関係するかを解明する方法。
- 性格類似型学に関連した方法論。
- 時代を社会と文化の関連の中で照らしなおし、芸術家の生活史の中での視点でもって眺める生活史的方法論。
- 精神分析学的、深層心理学的方法論。人間形成と深層心理を関連させるもの。
- 状況論。発病の状況的研究。
- 創造性がとくに発動する状況を把握する。
筆者は、カミーユ・クローデルの病理を心理学的な見解から論述するにあたり、CDEの方法論で考察していこうと考える。
徳田は、ユングのいう集合的無意識に注目し、芸術家の病理を探求する際に、神経症や精神病の心理的内容の形成や、創造的精神による幻想の形成、幻覚の内容に関連したものを見ようとしている。筆者もこれに習い、彫刻家カミーユ・クローデルを取り上げ、彼女の経歴や作品をパトグラフィー的、表現精神病理学的にまとめ、ユングの概念である集合的無意識やそこにある元型の理論で考察していきたいと考える。
第2章 パトグラフィーの視点より ―――――――――――――――――――――
カミーユ・クローデルは、近代フランスの代表的彫刻家オーギュスト・ロダンに師事し、芸術面においてお互いに影響を与えあった女流彫刻家である。カミーユはロダンとの創作活動によって彫刻家としての才能を発揮するが、ロダンとの別離後、孤独の中で創作を続けるうちに、その精神はしだいに病みやがて発狂するに至る。カミーユの発病は、ロダンとの関係なくして考えることはできない。また、フランスの代表的詩人でありフランス大使でもあった弟ポール・クローデルの存在もカミーユの病に関係していると考えられる。
ここでは、カミーユの経歴と作品による表現を、パトグラフィーの視点より考察していく。
●カミーユ・クローデルの作品から
宮本は、カミーユ・クローデルの創作活動を大きく4つの時期に分けている。その第1期は、少女期からの修行時代、第2期はロダンと創作活動を共にした時代、第3期はロダンと離れて独自の創作を見出した時代、第4期は精神病的変調が現われだした時代である(宮本,1985(7))。本節では、この宮本の区分に沿って、カミーユの内的世界を表している作品をあげ、その作品に見られるカミーユの心理過程を考察していく。(※カミーユの作品に『』で表記し、ロダンの作品には「」で表記する)。
1. <少女期から修行時代> 1864年(誕生)−1882年(18歳)
カミーユ・クローデルは、1864年、フランス北東部のエーヌ県タルドノアの寒村ヴィルヌーブ・シュル・フェ―ルに長女として誕生した。父は登記所長であり、クローデル家はその時代の中産階級に属していた。
“カミーユ”という男女同性に用いる洗礼名は、カミーユが誕生する前年に生後16日目にして死亡した長男シャルル・アンリへの思いもあり命名されたという。2歳下に妹ルイーズ、4歳下に弟ポールがおり、この弟が後に駐日大使を勤めた詩人ポール・クローデル(1968−1955)で、芸術面や精神面においてカミーユに深く影響を与えた存在となる。
1876年、父は娘の芸術的才能を援助するために、ノジャンに住む彫刻家アルフレッド・ブーシェに娘の指導を託す。カミーユ12歳の時である。1881年(カミーユ17歳)、父はランブイエに赴任することになり、子供たちに高等教育を受けさせるため、家族をパリに住まわせ別居する。ブーシェはカミーユの指導をしていたが、イタリアに留学することになったため、ロダン(1840−1917)にカミーユの指導を依頼する。
この時期のカミーユの初期作品は、『13歳のポール・クローデル』(1881年,40×36.5×22cm)、『老女エレーヌ』(1882年,28×18×21cm)が現存している。修行時代といえども確かな技量がはっきりと現われている作品である。
2.<ロダンとの創作活動期> 1883年(19歳)−1893年(29歳)
この時期は、カミーユがロダンの弟子、モデル、ついで愛人となり、共同生活を経てやがて別離に至るまでのほぼ10年間で、ロダンとカミーユの作風が最も接近していた時期である。
1883年、カミーユはロダンの最初の女弟子となる。カミーユは、ロダンのモデルをするうちに、1885年(カミーユ21歳)には愛人関係となったとされている。
ロダンはこの頃、「カレーの市民」(1884−1895)や「地獄の門」(1880−1898)という大プロジェクトを国から受注し、その制作にあたっている。カミーユはそれらの彫像のモデルとなり、また作品の下彫りや手足の創作をロダンから任せられた。それは、ロダンから才能を認められていたことを示す。カミーユは師に従い、全身全霊を込めて創作し、ロダンもまた若いカミーユから多くのインスピレーションを得てそれを創作の糧とした。
1889年(24歳)、カミーユは家族と別居しパリのイタリア通りに住居を移しており、同じ頃、ロダンはその近くにふたりのアトリエを借りる。実質上そこがふたりの住まいとなった。その生活は1892年(28歳)まで続いたとされる。
ふたりは共同体となり創作し、当然ふたりの作風は似通ってくる。弟子の作品に師の名が刻まれるという当時の慣習もあり、結果的に師が弟子を利用した形をとっていった。これが後にカミーユの被害妄想へとつながるのである。
この時期に制作されたカミーユの作品の中から、当時の状況と心境が表れている作品を一例あげてみよう。
カミーユの『サクンターラ』(図1)は、その時期のカミーユの作品で最も有名とされる彫塑である。この作品は、ロダンの「永遠の偶像」(図2)と共鳴し合う作品とされていて、扱われているモチーフは非常に似通っている。ふたりの違いといえば、その主題の取り組み方にあるとパリスは述べている。「『サクンターラ』と「永遠の偶像」がしばしば比較されたのは当然である。しかし、こうした比較は表面的なものにすぎない。なぜなら、主題に生命を吹き込む精神が異なっていた。ロダンにとっては多くの場合、主題は重要なものではなく、題などは第三者がつけたりしているほどである。」(パリス, 1989(8))そこで筆者はカミーユの着想に注目してみた。
『サクンターラ』は、ヒンズーの詩人カーリダーサの文学作品であり、シューベルトによってオペラにもされ、その当時の西欧諸国の民衆にとって馴染みがあったものと考えられる。この彫塑は、サクンターラとその夫が再会し結ばれる場面を表している。
この作品の要素となる例として、ヒンズー寺院の外壁を装飾していた「愛し合う二人」(図3)という彫刻があげられる。このような彫刻はヒンズー寺院全体に見られる。それは、宗教の目的である「永遠の解脱」を目ざしている。この神聖なる結婚のモチーフは、インドの伝統的宗教感性に浸透する象徴である。男女の愛の背後には、宇宙や人間の存在を超越した和合が無意識のうちに存在し、生命の目覚めを待つという。「結合」とは、いうまでもなく完全に個人を超えた過程である。このとき個人はエゴから離脱している。「結合」において、愛と真実は調和される(ムーン,1995(9))。
筆者はここで、カミーユの内的世界にロダンとの融和を見る。お互いの共鳴から、芸術という生命と喜びが溢れ出てくる様子がうかがえる。カミーユは、ロダンと同一体となって、その芸術を表現していくことを希望していたと筆者は推測する。しかし、外的世界において、ロダンは芸術的立場ではカミーユを弟子としか扱わず、女性としても愛人として扱い結婚は考えなかったと見られる。
3. <ロダンからの離脱期> 1893年(29歳)−1904年(40歳)
カミーユは、自分を弟子や愛人としてしか扱わないロダンへの反撥を示しロダンの作風から自立しようと試みる。この時期は、カミーユにとって自分自身の新たな様式を始める10年間である。
1892年(28歳)、カミーユはイタリア街のロダンとのアトリエを出て別居する。ロダンとの別離は完全ではなかったが、内妻と別れようとしないロダンとの関係に終止符を打つためであり、また彫刻家としても自立するためであった。世間から、カミーユの作品はロダンとの類似を指摘されていたので、ロダンの作風から離脱して独自の創作を見出だそうと試みた。カミーユはイタリア街の自分の住まいをアトリエにし、そこに閉じこもって創作に没頭する。
『ワルツ』(図4)の作品は、1891年から1905年の間に三作品発表された。1891年に発表された最初のブロンズの作品は、ロダンと別居直前に制作されたもので、それまでカミーユにはなかった音楽性が表現されている。音楽家クロード・ドビュッシーとのつかの間の交際の中で制作されたものであり、その影響が見られる。
カミーユのこの名作は、アンドロジーヌの神話と、その昔、イタリアやプロバンズ地方で踊られたワルツの一種“ヴァルト”にまつわる伝説からの発想とされている。それは、もともと人間は男女両性具有のアンドロジーヌであったのが、ジュピターによって男と女というふたつの性に分けられた、という話である。同情したヴィーナスは、ふたりを再び結び合わせることのできるダンス、旋回し回転しながら踊る“ヴァルト”を教え、原体の一体を取り戻すべく、自己の分身を求め、激しいダンスを舞うことで、男女の完全な結合を得るという永遠の愛の主題である(米倉,1991(10))。筆者は、この作品にも『サクンターラ』で表されている“融合”を感じ取る。カミーユの外的世界では、ロダンとの別居を考えている時期であるが、内的世界においてはロダンとの結びつきはまだ続いており、ドビュッシーから音楽性という影響は受けたが、ダンスの相手はドビュッシーではなく、まさしくロダンであると筆者は考える。
『クロト』(図5)は、ロダンと別居後、1893年に制作されたものであり、老醜をリアリズムに描いている。『ワルツ』に比べて明らかにテーマが重くのしかかってくる作品である。筆者は、ロダンとの別居での孤独がこのモチーフを生み出したのではないかと考える。
『クロト』のモチーフはギリシャ神話に由来している。モイラとよばれる「運命の三女神」のひとりであるクロトは、「紡ぐもの」という意味を持っている。それは英語の“cloth”の語源となっている。クロトは、希望と幸福、成功と失敗、愛と絶望から、生命の糸を紡ぎ人間の運命の布を織る。その姿は、老女として表されている(グラント,1988 (11))。筆者は、『クロト』の作品からカミーユの内的世界においての二元性を見る。ロダンとの融合の時代を経て、これからの二分化されている自分の運命をこの作品で表現していると筆者は解釈する。
事実上『ワルツ』と『クロト』の作品の発表は、美術界での評価も高く順調なすべりだしであったとされている(米倉,1991(10))。それまで、ロダンとの作風の類似点などで評価されなかったカミーユにとっては、ロダンから独立する目的はひとつ果たせたのではないだろうか。しかし、そこにはロダンとの訣別への多大な心的エネルギーの流れがあったと考えられる。それを次の作品で物語っている。
『分別盛り』は1895年に石膏でまず創作された(図6)。ひざまずいた若い娘が男の手を胸に抱いている。この頃は、別居はしていたもののロダンとの交際はまだ続いていた時期である。この作品のテーマは、明らかにカミーユとロダンと内妻ローズの三角関係を現していると理解できる。
1898年(34歳)、カミーユはロダンと完全に訣別し、テュレンヌ街へ移り住む。翌年にはブルボン河岸に住居兼アトリエを構える。人付き合いは益々悪くなり、世間を避けるようになる。ロダンの援助を拒否し、彼女の生活は極貧といえるところまで追い込まれていったとされている。そのアトリエは、訪れる人が衝撃を受けるほど乱雑であったという(パリス, 1989(8))。この頃から、狂気の足音がしだいに忍び寄ってきたのであろうと筆者は考える。
1899年に発表された『分別盛り』のブロンズの作品(図7)は、そんな生活の中で創作されたものであり、カミーユの内的世界において、ロダンとの断絶がはっきりと現われていることを筆者は見る。男は老婆に抱きかかえられるように引きずられており、反対側で若い娘がひざまずいて懇願するように両手を差し出している。男が連れ去られて娘が取り残された様子を表している。米倉は、この老婆は“死”を表していると解釈している(米倉,1991(10))。筆者は、カミーユの内的世界では、内妻の姿は“死神”であり、カミーユとロダンを分かつものは“死”に相当するものとして感じとっていたと考える。『分別盛り』という同じテーマのふたつの作品に取り組んでいる期間に、カミーユの内的世界の心的経過がうかがえる。結果的に、ひとり置き去りにされ孤独の深淵へと沈んでいく自分自身を暗示しているのではないかと筆者は考える。別居は、カミーユにとって外的世界においての最後のかけひきであり、ロダンとの訣別の決心の裏に、ロダンがカミーユの必要性を再認識し結婚することで、ロダンを自分のものにすることを望んでいたと推測できる。従って、別居当初の内的世界では、ロダンとの融合はまだ続いていたと考えられる。結果的には自分の策略どおりに事は運ばず、カミーユの外的世界では、住居を二度も転移し優柔不断なロダンとの別れをカミーユ自ら決定的なものとしたのであるが、内的世界においては、ロダンとの訣別は完全なものではなかったのではないだろうか。
1898年に創作された作品『ペルセウスとゴルゴネス』(図8.9)で、カミーユはロダンとの別れの痛みを表現している。
このモチーフは、ギリシャ神話に由来するものである。頭髪は蛇、歯は猪、醜い顔と黄金の翼をもち、人を石に化す眼をもつ怪物メドゥーサ(ゴルゴネス三姉妹のひとり)の首を斬り取ったペルセウスを表している。メドゥーサは明らかに女性の元型の最も暗く破壊的な面を表している。彼女は自分を見たものは誰でもからだを麻痺させたり石に変えたりして破壊させる魔女である(ムーン,1995(9))。この作品のメドゥーサの表情が、この頃のカミーユに似ていると弟ポール・クローデルは述べている。ポールは、ペルセウスをロダンに、メドゥーサをカミーユに見立て、ロダンと別れた苦しみのなかで刻まれたこの彫像に、姉の想いを読み取ろうとしている。
「ペルセウスが後手に掲げてもった髪の頭は、狂気の顔以外のなにものであろうか?というよりはむしろ、そこに悔恨のイマージュが読み取れるのではないだろうか?上にあげた腕の先につかまれた顔、確かにそこには悔恨でゆがんだ表情を認めることができるように思われる(ポール・クローデル)」(米倉,1991[1])
内的世界でのカミーユは、死んだ者として自分を捉えているように筆者は感じる。また、その表現を見て、メドゥーサのその表情にはすでに精神的な病の影を映し出しているのではないかと考える。メドゥーサが象徴する“女性元型の破壊的な面”は、後に見られるカミーユの破壊行動を暗示しているのではないかと解釈する。
この時期、ロダンの代表となる大作、「カレーの市民」(1884−1895)や「地獄の門」(1880−1898)という作品群が完成し、公共の広場を装飾していった。ロダンの名声は益々高まっていった。それらの作品は、かつてカミーユとの共同生活の中で創作されたものである。その中には、カミーユが手がけた作品もあり、またカミーユ自身がモデルを務めたものもある。その結果、カミーユの内的世界では、師に利用されたという認識が明確化し、後の被害妄想をひき起こすきっかけを招いたと筆者は考える。
4. <精神病的変調期> 1905年(41歳)−1913年(49歳)
この時期は、カミーユの妄想が顕在化し生活が破綻して、その精神病的変調が周囲の目から疑えなくなった約8年間である。
カミーユは、ロダン一味が彼女のアイデアを盗みに来るという被害妄想を抱くようになる。そのロダンに対する強迫観念は少しずつカミーユの精神を蝕んでいく。カミーユの内的世界においては、カミーユがロダンに才能を盗まれたという事実が顕在化していたと筆者は考える。
この妄想は、カミーユからポールに宛てた手紙で確認される。
「あのさもしい男は、いろいろな手段で私の力を吸い取り、それを仲間の小器用な芸術家たちと分けて、引き換えに勲章をもらったり、拍手喝采や宴会やらにあずかったりしているのです…。この有名な男にたいする拍手喝采を得るために、私は目の玉が飛び出るほどの出費をしましたが、私自身の儲けはまったくゼロです!(パリス,1989[2])」
ロダンの有名な言葉に、「私は彼女に、黄金のありかを教えた。しかし彼女の見つける黄金は、まさしく彼女のものである(パリス,1989[3])。」とある。ロダンは、世間の論評からカミーユを擁護していた。外的世界ではロダンの言うとおりであったのかもしれない。しかし、カミーユの内的世界では、ロダンのその好意でさえロダンからの迫害であると捉えたと筆者は考える。
ロダンが、カミーユとの別離後に作った作品はかなりの数になるが、その大部分は「地獄の門」の群像を手直ししたものであるとされている(パリス,1989(2))。カミーユは、入院する1913年までの間に、自分がかつて力を注いだとみられる作品や、自分のアイデアから生まれた作品が、修正され、大きなものになっているのを目にしたと考えられる。このことは、カミーユの内的世界での妄想は、外的世界においても一部は事実であったことを証明している。その事実は、ますますカミーユの妄想を進行させていったであろうと推測される。
ロダンの栄光を目の当たりにし、その影である自分の存在を実感することは、自尊心の強いカミーユにとって耐え難い屈辱だったであろう。
1905年(41歳)頃にカミーユがポールに当てた手紙の中で、妄想によって精神的変調をきたしている様子がうかがえる。
「私が新しい雛型を一つ打ち出すたびに、鋳造工に、鋳型師に、職人たちと商人たちに、何百万という雛型が流れます。そして私の手元には…ゼロ足すゼロはゼロです…昨年、私の隣に住むピカールという、警視庁の私服刑事の兄弟にあたる男(ロダンの仲間です)が、合鍵で私の部屋に忍び込みました。・・・・・・略・・・・・・またあるときは、家政婦がコーヒーに麻酔薬を入れて飲ませたので、私は12時間ぶっ続けに眠ってしまいました。そのあいだに家政婦は洗面所に入り込み『十字架の女』を盗みました。その結果『十字架の女』が三体生まれました(パリス,1989[4])。」
この手紙から、筆者は、カミーユの妄想と苦悩は固定観念になり、偏執に変わったと見る。カミーユの精神の変調と明白な錯乱が現われていると考えられる。
1906年に制作された『傷ついたニオビード』(図10)が、カミーユの一般的作品として最後のものとされている。ギリシャ神話の中から、殺戮の犠牲者であるニオベーの娘を主題にしている。
タンタオルスの娘ニオベーは、テーバイを治めるアムピーオーンに嫁ぎ、七男七女を設ける。ニオベーは民にむかって、二人しか子供を持たない女神レートーを崇拝するより、14人の子供を持つ自分を崇めよと豪語する。この傲慢な態度に憤慨した女神レートーは、自分の息子アポローンとアルテミスに命じて、ニオベーの子供を弓矢で射殺する(グラント,1988(11))。作品は矢にかけられたニオベーの娘を描いている。
筆者はこの作品を見て、“娘”を表しているが『ワルツ』のような若々しい女性の肢体ではなく、どちらかというと『クロト』のような生気がない状態が現われているように感じる。“娘”というよりは中年女性のような張りのない形態である。そして、右胸に突き刺さった矢が“死”を確かなものとして象徴している。精神の変調が明らかになってきたこの時期、カミーユが主題に“死”を選択した推移は、カミーユ自身“芸術家としての死”あるいは、“人間としての尊厳の死”の訪れを予感していたのではないかと筆者は考える。
この年、弟ポールが結婚し大使として中国へ赴任することになる。それをきっかけにカミーユの病状は進み、精神の崩壊によって徘徊症の発作が始まったとされている。この頃から、毎年夏になるとその1年間の作品を全部ハンマーで壊すようになっていった。ロダンに作品を盗まれるという妄想がその行動を起こしたとされている。そのため、当時の作品で残っているものは数少ない。
狂気の状態で創作活動は続くが、1913年(48歳)、父の死後すぐに弟ポールと母ルイーズが医師へ働きかけ、カミーユは精神病院に強制収容される(書類上は、自発入院である)。その後30年間、退院することなく生涯をそこで過ごすことになるのである(パリス,1989(8))。
カミーユの創作活動は、入院することによってその幕を閉じた。その後、創作が再開されることはなかった。精神的な病は、創作という表現の場を呑み、カミーユを芸術家としての死に追いやった。しかし、創造自体が、カミーユを病に追いやったともいえるのである。
● 弟ポール・クローデルとの結びつき
1. 家庭環境
1951年に開催されたカミーユの作品展で、そのカタログのために書いたポール・クローデルの序文から、少女期のカミーユと弟ポールの関係をよく表されていることがわかる。
「私はいまもありありと見える。美と才能の勝利の輝きと、私の青年期をしばしば冷酷に支配した影響力とのなかにあるあの近よりがたい美少女が(パレス,1989 [5])。」
成長期のポールはミューズ的存在としてカミーユを見、その支配下にあったと筆者は考える。
カミーユが誕生する前年に、両親は生後まもない長男を失っていた。長男の身代わりとしての男児を期待していた母親にとって、カミーユは最初から「望まれぬ子」であったという。その頃、両親の不和もあり母はカミーユに愛情を示さず、代わって父がカミーユに愛を与えたという。それに対抗して、母の関心は洗礼名に自分の名を与えた妹ルイーズに注がれた。少女期のカミーユは、敏感で繊細な反面、自尊心が高く、我が強い性格で、6、7歳の頃から彫刻を始めたらしいが、芸術を理解しない母はそんな娘を嫌ったとしている。そんな状況であるから、家庭の中はさぞ殺伐としていたことであろう。母に愛されぬ子どもにとって、安息というものがそこにあったのだろうか。そんな状況から逃れるため、カミーユは弟を支配下に置き、その満たされぬ想いを空想や芸術の世界によせることによって自分達の安息の地を求めたのではないかと筆者は考える。
2. カミーユとポールの芸術的共感
本章第1節で紹介したように、今回取り上げた作品は、カミーユの内的世界を表しているものである。それらは神話的世界からの着想を得たものが多い。ポールの作品もその傾向が見られ、カトリック詩劇やギリシャ劇の作品を数多く残している。また、ポールはカミーユのことを詩で書き、カミーユはポールの胸像を作り続けたようにふたりの芸術的交流は続いた。カミーユはポールを信頼し多くの手紙のやり取りの中に作品のアイデアについて語っている。ふたりは小さな頃から、創造的世界を共有し、その絆は深かったと思われる。
ここで、カミーユと同じ創造的世界を共有しつつも、ポールには狂気の傾向はなかったのかという憶測が持ち上がる。
ポールの戯曲「黄金の頭」(1890年作,ポール20歳)について、ポールの孫ヴェルレーヌ・ボンゾン・クローデル夫人は、「クローデル家は“狂気の因子”があった」と語っている。
ポールの心の中には耐えず姉と同様に狂気が渦巻いていたが、ポールは自分が狂うかも知れないと自覚し危機を感じ、狂気の侵入を防ごうと、文筆、家族への愛、カトリック信仰によって周囲に厚い砦を築いたという(浦田,2002 (12))。
この説に信憑性はないが、そもそも芸術家というものは一般の人が感じえないところに注目し発想を広げていくものであると筆者は考える。そんな意味では、多くの芸術家について、“狂気の因子”を抱え込む要素があると言えるのではないだろうか。
3. ポールを失っての狂気
本章第1節で述べたように、1906年ポールが38歳で突然結婚し中国に旅立ってから、一挙にカミーユの病状は悪化した。妄想は顕在化し自分の作品を破壊するなどという行動に走ったとされている。ポールを失い、ポールのミューズ的存在としての自分の位置を見失った喪失感が、カミーユを絶望的な孤独においやり、心のバランスは崩れ、修復不可能なものとなったと筆者は考える。
1913年に精神病院に入院し1943年に死亡する30年の間、カミーユは退院することも外出することもできなかった。カミーユの母は一度も見舞いに訪れず、医師から自宅近くの病院に転院の要請がなされたが、堅く拒んでいたとされている。外交官であったポールが帰国した際に見舞っていたようであるが、それでもカミーユにとっては孤独なものであったと想定される。
ロダンの死後(1917年)、その対象の見境を失ったカミーユの強迫観念は、母にむかったとされている。母はロダンと共謀して自分の作品を盗む泥棒であり、そのため自分を退院させないのだと主張した(パリス,1984(8))。
入院という幽閉状態によって、カミーユはその内的世界でロダンと向き合い続けることになった。その時期、家族と親密に接し外的世界にしっかり目を向けることが可能であったなら、内的世界のロダンへの妄想もなくなり、病状は改善されたのではないかと筆者は考える。
第3章 創造をめぐる一体的関係 ――――――――――――――――――――――
「第2章 パトグラフィーの視点より」で述べたように、カミーユ・クローデルは精神的な病によって創作活動を断つことになった。その創造と病理にはロダンとポールというふたりの男性が関係すると考えられる。創造者とその親密な関係を持つ他者との一体化が、創造と病理に関係することを、宮本は「エピ-パトグラフィー」という造語で説明した。一体的共同体として相手との共存のなかでは安定している関係も、その一体感が障害される状況が生ずると、弱く依存的な立場の一方が侵害感を抱き危機状態に陥るという(吉野,2001(13))。
その創造と病理との間にどのような関係があるのか、ロダンとポールがカミーユの創造と病理にどのように関係していったのか、また、病はカミーユが女性であることに関係があるのか、元型という概念をもとにして、その原理を探っていく。
● 分裂病と創造 ※
1. カミーユ・クローデルへの診断
カミーユの病状は、当時「解釈と空想にもとづく系統的迫害妄想病」と診断されていた。80年代に、レルミットらがカミーユの病跡を研究し「パラノイア精神病の解釈妄想」と診断している(パリス, 1989(8))。宮本は、同様の研究で「妄想構造の変化や社会生活の破綻などから精神分裂病」と診断している(宮本,1985(7))。
筆者は、パリスの著書「カミーユ・クローデル」に記述される経歴や病歴、カミーユと家族による書簡類、宮本によるカミーユの見解を参考にし、第2章で筆者がパトグラフィー的に見ていった見解を基に考察した。カミーユの病状が明らかにわかるように顕在化したのは40歳前後で発病が比較的遅いこと、病状が長い経過をたどること、内的経験の異常、妄想が認められることなどから、精神分裂病(統合失調症)の妄想型ではないかと判断した。
これまで、多くの研究者によって、芸術家と精神分裂病の関係が論じられている。芸術家がもつ精神的な特異性は、そのすべてが病に繋がるとは限らないと筆者は考えるが、芸術と精神分裂病がどのようにかかわっているのか考察していく。
2. 分裂性格
ストアは、分裂性格(schizoid personality)と分裂病とを一連の力動構造の下で生じる事態であるとみて、創造性について論じている(福島,1981(4))。
この理論はクライン(Klein,M)の対象関係論に基づいていて、他者との相互作用(対象関係)の代償としての創造性は、分裂性格者にとって次のような適切性をもつとしている。
- 創造は多く孤独なものであるから、現実の対人接触を回避できる。
- 創造活動は分裂性格者の万能感的空想の存続を可能にする。
- 創造活動では外界よりも内面(内的現実)を重視することができ、実際の世界での両者の力の不均等(外界の力>内面)を修復する。
- 科学的発見のある種の創造力は、予測不能で恣意的(カフカ的)世界に秩序を与える。
- 創造活動は分裂性格者の無意味感と無益感(Fairbairn)に対する防衛となる。
福島は、これらを、分裂性格者(その多くは分裂気質の精神病質schizoid)にとっての創造がもつ「適性」や、発病を防ぐ「防衛」としての意味があると述べている。分裂病と創造は、分裂性格の素質を持ったところからの発展であり、方向は異なっているが、排他的な関係ではなく、重複することもあり得るとしている。
筆者は、第1章で記したユングのいう「退行」作業が、分裂性格を生むのではないかと考える。カミーユの気質がそれを含むに値するなら、子どもの頃から精神世界を共にしたポール、または創作活動に融合性をみたロダンにも分裂性格があったのではないかと考えられる。ストアの理論でいうと、ロダンとポールは、分裂性格から「創造」を危険性なく創出できたのだろう。カミーユは、「創造」と「分裂病」が重複する形で、その作業が行われることになったと筆者は解釈する。
3. 分裂病コンプレックス
角野は、著書「分裂病の心理療法」で、分裂病の元型を核とした「分裂病コンプレックス」によって、分裂病を説明している(角野,1998(14))。
「コンプレックス」とは、無意識下で自我を脅かすような心的内容が一定の情動を中心に絡みあって構成されるまとまりのことをいう。ユングによれば、コンプレックスは成長の過程での耐え難い主観的体験をその中核にもつため、無意識の領域に抑圧されている(心理学辞典,1999(15))。コンプレックスは、元型が核となり、それと関係する複数のコンプレックスがその元型に集合してできた心的複合体である。それぞれ集まってできたコンプレックスも、核となる元型が中心に位置しそのコンプレックスを形成している。コンプレックスの背後にはまだ深い層があり、それは集合的無意識や元型の領域に属する。コンプレックスは、個人的無意識に属すると考えられるが、コンプレックスを形成している中心であり核である元型は集合的無意識に属する(河合,2001(16))。
【図12】
角野は、ある病が原因で発生した内的イメージは、最も深いこころの層から元型的イメージとして影響を受けているとしている。その病が原因で内因に発生したコンプレックスは、現実に病に罹った人にも、その病をもつ人とかかわった人にも同様に発生し存在すると考える。
分裂病には、核となる分裂病元型から構成された独自の病理性をもつコンプレックスが発生すると考えられている。ユングはそれを分裂病コンプレックスと呼んだ。分裂病元型も分裂病者にのみ存在するとは考えられない。ただ、分裂病元型を核とした分裂病コンプレックスが、ユングの言うように大きな破壊力をもっていると、こころの病として発展してしまう。ユングは分裂病元型の感染性について心理学的観点から以下のように述べている。
「父親が分裂病元型に同一化し、そのことに気づかず、無意識のままで責任をとらなければとらないほど、その子どもへの分裂病元型の移行はますます実際の問題となってしまう。つまり元型は感染する可能性が大きいのである(角野,1998 (14))。」
このように、分裂病コンプレックスがカミーユ自身の無意識に存在したなら、カミーユに深く関わったロダンやポールにも同様に存在したと仮定できる。しかし、筆者はロダンとポールの分裂病コンプレックスは、またそれぞれ違う種類のものと考える。カミーユとロダンに共通する分裂病コンプレックス、カミーユとポールに共通する分裂病コンプレックスはそれぞれ異なった存在である。
ここで、カミーユ、ロダン、ポールが、分裂性格、分裂病コンプレックスを同様にもつと仮定して、なぜカミーユだけに病が発症したのだろうか。次節でそれについて考察していく。
● 女性の個性化
カミーユは、ロダンのミューズ的存在であり、また弟ポールにとってもそうであった。筆者は、ふたりの男性のミューズとしての立場に、何らかの病因があるのではないかと考える。
カミーユ・クローデルの時代に存在したユング派分析家ノイマン(1905−1960)が、女性の無意識を、元型的な面から説明している(ノイマン,1980(17))。筆者はこの概念を参考にし、カミーユとロダン、カミーユとポールの関わりを考察していく。
1. 自己発見と自己保存
人間が生まれた時の心の状態は、自我と無意識が融合している状態であり、自他未分化の状態である。ユングによれば、その状態は自らの尾を咬んで閉じた円をなしているウロボロス(図13)という元型で象徴されるとしている。それは、母親への投影という形で現れる。男子の場合は、母親との関係で男性と女性の対立原理を経験し、成長過程においての肉体的変化が現われることで「自己発見」に至る。女性の場合、成長しても母との分離されていない関係は保たれ、母親との同一性が引きつづいて存続することから、「自己発見」は始めから存在するとされている。そして、「自己保存」の段階が、この状態で長く続くとされている。「自己保存」とは、一般的には、「生物が自己の生命を維持・発展させようとすることである(大辞林,1998(18))」と定義されている。ノイマンのいう「自己保存」の段階では、女性は、男性一般や自分の夫に対し、まだ自我をそなえた個人に至っていない状態で接している。女性にとって“男性的なもの”への関係には、外的世界の男性への外的関係と、彼女自身の内に働く男性原理への内的な関係とがあって、女性の成長のために、両者とも必要不可欠であるとされている。
2. 自己放棄‐父権的ウロボロスの段階
ノイマンによると、自己保存の次の段階は「自己放棄」の段階とされている。この段階は、父親的なウロボロスの侵入段階である。母親段階から父権段階への移行で、“女性的なもの”が征服される段階であるとされている。
女性の内的世界で、父権的ウロボロスの元型が“精神的な父”として魅了されるようなものである場合、女性の内的世界にある“女性的なもの”は「永遠なる父の娘」という性格を持ち、“処女”として“精神的な父”と結合した状態を続けるという。“精神的な父”の存在は、宗教の次元では神々であるが、現実の人間では、その女性が惹かれている男性、芸術家、預言者、詩人などであったりする。この時女性は、その男性の“アニマ(男性の無意識に属する女性像の元型)”となり、彼の“霊感の源”として生きることになる。元型的な女性像と自らを同一視し、ソフィアの役割、“精神的な父”の伴侶の役割を演じるのである。それによって女性は、本来の自分の人生を生きる機会を失う。これを「自己放棄」という。
女性は、“精神的・男性的なもの”との一体関係を求めるあまり、この傾向の犠牲となり、自分自身の自然的本性から疎外される。これは、自分の内なる男性的なアニムス(女性の無意識に属する男性像の元型)の側面を異常に発達させた結果である。“精神的・男性的なもの”と同一化したため、女性はグレートマザーの大地的本性を放棄し、男性的な諸力の犠牲となる。そうなると精神病の危険も伴う場合がある(ノイマン,1980(17))。
筆者は、カミーユの<ロダンとの創作活動期>がこの「自己放棄」の時期にあたると考える。カミーユの作品『サクンターラ』からも、ロダンとの融合を求める表現がされ、ロダンと同一化して創作を志すカミーユの内的世界がうかがえる。この時の作品や生活からは、表面的には病の兆しは見られないと筆者は判断するが、ノイマンの「自己放棄」の理論で考察すると、カミーユの内的世界においてすでにその危険性を含んでいたことが理解できる。筆者は次にくる「個性化」段階で、それが明らかに表面化していったのではないかと考える。
3. 個性化段階
「自己放棄」の段階を経て、真の自己を求めようとするのが次の「個性化」の段階である。個性化の過程を、ユングは以下のように論じている。
人は、自我の思考や判断を超えた内容が無意識から送られることによって、人間全体としてのより高次な統合性に達することに気づき、人間の無意識内に人間の心の意識も無意識も含めた全体としての中心、自己(self)が存在する。
「自己」はまったく仮定の存在である。しかし自分の人生を考えるときに「自我」のみを中心として考えるのではなく、それを超えた「自己」という全体性をそなえた存在があると仮定し、自己の声に耳を傾けることによって、人生は豊かになる、というのがユングの考えである。彼はその過程が極めて個人的である点に注意して、それを「個性化の過程(process of individuation)」と呼んだ。あるいは、これを「自己」のrealizationであるとも考え、「自己実現(self-realization)」とも呼んだ(河合, 2001(16))。
ノイマンは女性の個性化を以下のように述べている。女性が個性化と自己実現の段階にいたると、構成的な全体性をめざそうとする中心志向(Zentroversion)が突然出現する。中心志向とは、人間が人格形成へ達するまでの無意識的傾向である。この傾向は、前向きに踏み越えなければならないのに、ある段階に立ち止まっていると、必ず人格の発達という点で退行を生じることをいう。ここで人格の変容過程が始まり、人格の構成要素の新たな統合へと導くことになる。(ノイマン,1980(17))。
カミーユは、<ロダンからの離脱期>の中で「個性化」の過程に挑んだと筆者は考える。しかし、前の自己放棄の段階で、ロダンとポールのミューズ的存在であったカミーユは、個性化段階においても、ミューズとしての存在を引きずり続け、内的世界の中ではロダンとの訣別が不完全な状態であった。従ってカミーユの「個性化」は、人格の変容過程で危険性を含んでいたと考えられる。そこでカミーユが分裂性格を持ち合わせていたと仮定すれば、変容過程での「退行」が始まると、人格の統合に至るまでに、カミーユの無意識にある分裂元型が芽を出し始める可能性が考えられる。ロダンとの訣別で、その心的エネルギーは「個性化」に向けて退行する。カミーユにとって、個性化のひとつとして考えられるのが、「創作」による達成感である。創作と分裂病コンプレックスは重複し、結果的に、分裂病という病がそれを覆い尽くしたのだと筆者は考える。ロダンとポールもそれぞれ持ち合わしていた分裂病コンプレックスが、カミーユだけに分裂病として発症したのは、カミーユの「個性化」がこれらふたりの男性と違った経過をたどったところにあると考える。
● 外的世界での自己確立
カミーユの分裂病コンプレックスが、なぜロダンとポールには外的世界で病として表出しなかったのかということを最後に考察しておく。まず、ロダンとポールは、男性であることもあり個性化の過程が違ったということは前節で述べた。他に考えられることは、外的世界においての自己の位置が確立していたということにある。
ロダンは、世間から認められた偉大な彫刻家であり、その地位は確かなものであった。ロダンが、カミーユと同様の分裂病コンプレックスを持ち合わせて創造という「退行」を経験したと仮定しても、内妻ローズとの生活という逃げ場があった。そこで創作から離れた外的世界と向い合い、創造の危険性から回避できたものと筆者は考える。
弟ポールにおいても、芸術面でフランスを代表する詩人でもあり、またフランス大使というエリートとしての地位を確立していた。カミーユと同じ精神世界を持ったとするところに創造の危険性が懸念されるが、外交官として中国や日本などの異郷の地へ赴き、外的世界で現実のものとして異空間や神秘性を体感することによって、内的世界における危険性を回避できたと筆者は考える。また、突然結婚しパリを離れ中国へ赴いたということは、姉カミーユの狂気を自分にも感じ、現実意識を固めるため家庭を求め狂気を遠ざけたと推測される。
ロダンにしろポールにしろ、日常生活は外的世界に重心を置き、内的世界にある創造の力をうまく表現していったと筆者は考える。しかし、ふたりのミューズの役割を担ったカミーユは、日常生活においてもそれを演じ続けることになったのではないだろうか。内的世界を重んじるあまり外的世界での生活が希薄になり、そして、ふたりの男性にとってのミューズとしての役割が不必要となった時、本来の自分の姿を見失い、個性化の第一歩を踏み出すことができなかった。即ち、カミーユは、自己放棄の状態から個性化に至る段階で、内的世界においてのロダンとの訣別ができず、個性化に失敗し、カミーユの人格は変容過程から統合できないまま自己破壊を招いたと考えられる。
おわりに
創造や芸術は、個人からでなく集合的無意識から創りだされるもので、他者があって始めて成り立つものと筆者は考える。創造は孤独な作業であり、「退行」を経験することは苦行に等しいといえる。この「退行」の時期に、他者との同一化や共鳴というものを得ると、本人ひとりでは考えられないほどの力やインスピレーションが生まれるのも芸術の面白さである。
カミーユがいた時代、エコール・ド・パリという美術家群の誕生に伴い、著名な芸術家が数多く出現した。画家達がパリに集まり、アカデミニズムや流派にこだわらず、刺激し合うことによって自己の創作に挑戦していった。この時、芸術家たちは、創作が危険をはらんでいるということを充分承知していたと筆者は考える。創作という「退行」を独りで担うには重すぎるからである。そこで芸術家たちは、美術家や作家や作曲家というカテゴリーを越えて、サロンで交流し、論議し高め合い身を寄せ合うことによって、無意識から襲いかかる危険を防御したのであろう。しかし、他者はそのように力となる存在でもあるが、カミーユの経験したように、負の力として働く側面をもつ存在でもある。カミーユの時代、女性として彫刻家としての個性化は困難であった。ロダンとポールを礎にしてのカミーユの成功は、その時代の父権性が許しはしなかったであろう。結果的には誰かが犠牲になり、父権的社会においては、その多くが女性である。栄光の影になる犠牲はつきもので、創造の世界においても存在する。他者と無意識を共有するのは歓喜を得ることもあるが危険も伴うことであると筆者は実感する。
筆者は、カミーユ・クローデルの創造と病理を、作品で見ていき、彼女の分裂性格、分裂病コンプレックス、個性化の過程で論じた。そこには、彼女ひとりでは、彼女の芸術が生まれることはなく、また精神的な病も生まれることはなかったと考えるに至った。この論文では、ロダンとポールというふたりの男性による関わりで、創造と病理を考察していったが、カミーユとその母との関わりも、精神的な病の起因であると筆者は考える。本論文では記述しなかったが、精神的な病理における母親との関わり、女性との関わりも、今後の研究課題のひとつとして考えている。
平成15年1月
【参考文献】
(1) 加藤正明『芸術を生みだす力』「芸術心理学講座第3巻 芸術の創作」1958年2月
(2) エーリッヒ・ノイマン「芸術と創造的無意識」創元社1984年5月
(3) 河合隼雄『物語ることと創造性』「パトグラフィへの招待」金剛出版 2000年4月
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(5) 徳田良仁「芸術を創造する力」紀伊國屋書店 1986年4月
(6) 徳田良仁「芸術の人間学」美術出版社 1978年2月
(7) 宮本忠雄『彫刻の光と影――ロダンとカミーユ・クローデル』「こころの科学」日本評論社 1985年11月号掲載
(8) レーヌ・マリー・パリス「カミーユ・クローデル」みすず書房1989年10月
(9) ベヴァリー・ムーン編「元型と象徴の事典」青土社1995年10月
(10) 米倉守「ふたりであること 評伝カミーユ・クローデル」講談社1991年6月
(11) マイケル・グラント、ジョン・ヘイゼル共著「ギリシャ・ローマ神話事典」大修館書店 1988年7月
(12) 浦田憲冶『ロダンとカミーユ・クローデルA』日経新聞2002年2月24日
(13) 吉野啓子『エピ-パトグラフィーについて』「パトグラフィへの招待」金剛出版 2000年4月
(14) 角野善宏「分裂病の心理療法――治療者の内なる体験の奇跡」日本評論社1998年3月
(15) 中島義明ら編集「心理学辞典」有斐閣 1999年1月
(16) 河合隼雄「河合隼雄著作集第1巻 コンプレックスと人間」岩波書店 2001年12月
(17) エーリッヒ・ノイマン「女性の深層」紀伊國屋書店1980年3月
(18) 松村章 編集 「大辞林」三省堂 1998年3月
【引用文献】
[1] 米倉守「ふたりであること 評伝カミーユ・クローデル」講談社 1991年6月 153頁
[2] レーヌ・マリー・パリス「カミーユ・クローデル」みすず書房 347頁
[3] 同上 83頁
[4] 同上 84頁
[5] 同上 32頁
[6] 角野善宏「分裂病の心理療法――治療者の内なる体験の奇跡」日本評論社 1998年3月 10頁
【引用図録】
図1レーヌ・マリー・パリス「カミーユ・クローデル」みすず書房 51頁
図2 同上 50頁
図3ベヴァリー・ムーン編「元型と象徴の事典」青土社1995年10月 369頁
図4レーヌ・マリー・パリス「カミーユ・クローデル」みすず書房 252頁
図5 同上 254頁
図6 同上 266頁
図7モニック・ローラン「ロダン」中央公論社 1989年11月 79頁
図8レーヌ・マリー・パリス「カミーユ・クローデル」みすず書房 278頁
図9 同上 281頁
図10宮本忠雄『彫刻の光と影――ロダンとカミーユ・クローデル』 82頁
「こころの科学」日本評論社 1985年11月号掲載
図11福島 章 『天才の創造性』「現代精神医学体系25 文化と精神医学」中山書店1981年11月 144頁
図13西秋良宏編集 「東京大学総合研究博物館ニュース第11号」 東京大学 2000年5月
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