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日本と西洋の絵画から 北斎とモネ  
 

浮世絵と北斎
 江戸時代、浮世の風俗を題材にした画家たちの絵を浮世絵といった。17世紀後半、菱川(ひしかわ)師宣(もろのぶ)(1618?-1694)によって大成された。遊里・芝居・相撲など、町人階級の好んだ風俗や似顔絵・風景などが描かれた。浮世絵には、肉筆画と版画とがあり、特に「錦絵」と呼ばれる多色刷り版画は、その後のフランス印象派に影響を与えた。それらの画家には、鈴木春信・喜多川歌麿・東洲斎写楽・歌川(安藤)広重・葛飾北斎などが著名である。
 浮世絵の画法とは、絵師がひとりで描いて仕上げるものではなかった。版元、版下絵師、彫師、摺師などの職人で成り立つ、商業資本を背景とする企業的な商品生産の集団で、制作されていた。

 北斎(1760-1849)は江戸後期に活躍した浮世絵師である。西洋絵画の影響を受け、早い時期から遠近感を取り入れた構図で「浮絵(西洋の透視図法を用いて描いた浮世絵)」を描いた。90歳までの長い制作期間の中で、その構図は計算され洗練されたものとして完成されていった。
 北斎は19歳の頃、当時、役者絵版画や肉筆浮世絵で人気を集めていた勝川春章に入門し、浮世絵師として活動を始めたといわれている。その後、70年の長い画業で三十数回も画号(絵師としての名前)を改号したとされている。北斎の画業は、その用いた画号によって6期に分類される。
 第1期の「春朗(しゅんろう)期(20歳頃〜)」は、勝川春章に入門し、翌年画壇デビューしてから勝川派を離れるまでの15年をいう。第2期「宗理期(36歳頃〜)」は、画号を琳派の名である「俵屋宗理」に改め、狂歌(日常卑近の事を題材に俗語を用い、しゃれや風刺をきかせた滑稽な短歌)の世界に深く関わり、狂歌歌本の挿絵などを多く手がけた。第3期「葛飾北斎期(46歳〜)」では、読本(よみほん)(江戸時代後期の読み物。戯作(げさく)の形式の一種)の挿絵で劇画的世界を描き人気を集めた。第4期「載斗(たいと)期(51歳頃〜)」は、読本挿絵から絵手本(絵のかき方を習うのに用いる手本。絵の手本。)に移行し『北斎漫画』を刊行した時期である。第5期「為(い)一(いつ)期(61歳頃〜)」には、為一と画号を改め、『富嶽三十六景』を始めとする錦絵を次々と生み出していった。第6期「画狂(がきょう)老人(ろうじん)卍期(まんじき)(75歳頃〜90歳)」で、80歳を過ぎてからは、古典や花鳥風月、宗教的なものを題材とした肉筆画を多く描いており、最晩年まで新しい試みに挑戦していった(5)。
 浮世絵を代表する画家の中でも、北斎は特殊な画家である。同じ浮世絵師では、「美人画」の歌麿、「役者絵」の写楽、「名所絵」の広重、とそれぞれ得意分野があるが、北斎は改号するたびに、とても同じ人物が描いたとは思えない多岐にわたった分野を、多彩な様式と題材で作品を描いていた。





北斎の構図

 北斎は、円・直線という幾何学的図形を使って絵の構図を決める画家であった。絵手本『略画早指南(文化9年・1812年頃、北斎53歳頃、載斗期)』では、円と三角画法を紹介している。この頃から、絵手本で絵の描き方を記載していくのにあたって、幾何学的な構図のとり方を紹介することによって、独特な構図技法が確立していったのだと思われる。この構図は、定規とコンパス(当時はぶんまわし)という道具で構成されている。
 『富嶽三十六景』を描き始めた為(い)一(いつ)期の頃には、幾何学的構図がますます発展し、円、三角、四角の造形を試みて描いている。『富嶽三十六景・尾州不二見原』では、大きな桶のわくの中に三角の白い富士山が小さく見えている。画面に大きな円とその中に小さな三角形の対比構図は、奇抜な発想である。
 『富嶽三十六景・神奈川沖浪裏』では、全体の構図は2本の対角線と19の円弧によってほぼ決められている。まず図8のように、四隅を対角線で結び、コンパスを使って波の位置と、富士山の位置を決める。次に、図9のようにそれぞれの円弧を描き構図を決めていくという技法で、コンパスで円を描いて大波と富士山の位置を決めていた。『田植え図(図10)』では、母親の左耳を中心として描いた同一の円周上に、5つのポイントが位置する方法で描いている(中村,2004(6))。

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【図8】『富嶽三十六景・ 神奈川沖浪裏』1831


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【図10】『田植え図』1843年

 また、北斎を始め江戸の浮世絵師は、一部で「枕絵」という春画(今の時代でいうポルノ)をアングラ商品として制作していた。絵師はお咎めを恐れるのもあり、サインをしないのが常識だった。その代わり「隠号」が記される場合がある。北斎の隠号は「紫色(ししき)雁高(がんこう)」であった。枕絵は、男女の性の営みをあらわにしたものであるが、からみの構図、誇張されたシンボル、顔、手足の表情など、ありのままを写生するのではなく、シンボルをクローズアップし印象的に巨大表現し、デフォルメの妙技を極めていた。それは、浮世絵にしか成し得なかった創作上の絵画美学である(中右(なかう),2002(7))。
 これらの北斎の浮世絵は、この後フランス印象派に大きく影響を与えることになった。浮世絵に見られる視点や構図が、それまでの西洋美術にはないまったく新しいものであったことがその理由のひとつであると考えられる。






ジャポニスム 浮世絵と印象主義の関わり

 浮世絵は当初、それ自体が美術品として輸出され、西洋に渡ったわけではなかった。浮世絵が注目されたのは、江戸時代末期、日本の伊万里焼が輸出されるとき、そのパッキングとして北斎漫画が使用されたことがきっかけである。その年代は開国以前で、通商条約締結前のことであるから、おそらくオランダ商船によってであろうと考えられる。
 1856年、フランスの画家ブラックモンは、印刷屋ドラートルの仕事場の片隅で、そのパッキングとして使われていた赤表紙の北斎漫画の画帖を発見した。ブラックモンは2年がかりでドラートルからこの画帖を手に入れ、友人たちであるマネやドガ、ゴッホといった当時の画家達に伝わった。そして、北斎の浮世絵は、彼らに多大な影響を与え、それが印象主義誕生のきっかけになったともいわれている(大島,1980(8))。
 その後、パリにおけるジャポニスム(japonisme仏語、「日本主義」の意味)の盛行を促した大きな動因として、1867年と1878年に開催されたパリ万国博への日本参加があったことがあげられる。
 『睡蓮』の連作が代表作とされるモネ(Monet,Claude1840-1926)は、浮世絵の収集家でもあった。『睡蓮』は晩年に描かれた作品である。モネの日本趣味は、自宅の庭を日本庭園風に造りあげるほどであった。庭にはしだれ柳を植え、池を造り太鼓橋を架けた。その風景を描いたのが『睡蓮』の作品である。そのようなモネの作品は、光の反射を描いたものであり、印象主義独特の特徴を持つものである。その作品には、それまでの西洋絵画になかった空間と時間軸が存在する。浮世絵に見られる日本文化が、モネを始めとするフランス印象派に、構図や空間表現に対する影響を与えたと考えられる。ここでは、印象主義と浮世絵の関わりについて、モネを例にとって考えていきたいと思う。





モネ 浮世絵との出会い

 1840年、クロード・モネは、フランスのル・アーブルで中流階級の家庭に生を受ける。ル・アーブルはノルマンディーの町で、ロンドン−パリ間の商品交易と大西洋貿易に最適の場所に位置していた。イギリスからの輸入品を扱う主要な港として活気付き、港湾が拡張され商業的急発展が遂げられつつあった。
 モネは、16歳頃にはすでに、水夫たちが日本から携えてきた版画や日本品に対して、夢
中になっていたという。モネが16歳という時期は、1856年頃のことであり、まだ日本と
フランスとの間には通商関係がなかった。おそらく、オランダ商船のル・アーブル入港と
いうことが想定される(大島,1980(8))。
 1866年、モネはサロン(毎年行われるフランスの公的な絵画展)に出品するため、『草上の昼食』の習作を描くが、未完に終わった。それは当時、前衛芸術家の事実上のリーダーであったマネへの挑戦であったといわれている(ウェルトン,1993(9))。代わりに出品された作品『緑衣の女』は、それまでの西洋絵画にはなかった立ちポーズで構成され、サロンへの入選を果たし、モネは成功を収めることになった。そのポーズは、浮世絵の『立美人画』を意識的に類似している。また、1867年に発表された『ラ・ジャポネーズ』にもその影響が見られる。
 モネの『緑衣の女』はサロンに入選したが、モネを始めとするジャポニスムに影響された画家たちの作品は、それ以降サロンに受け入れられず、入選することは難しかった。モネとその仲間たち30数名は、サロンに落選したことをきっかけに1874年「画家、彫刻家、版画家等芸術家無名協会」を結成し、最初の協会展を開いた。メンバーには、モネをはじめ、ルノワール、シスレイ、カミーユ・ピサロ、ドガ、セザンヌ、ベルト・モリゾ、ウジューヌ・ブーダンがいた。
このとき、モネが発表した作品『印象、日の出』をもとに、批評家のルロワが展覧会評の題名に皮肉を込めて「印象主義者展」と題したのが、フランスにおける印象派発祥の所以である(ウェルトン,1993(9))。
 モネの作品には、浮世絵の中でも、北斎や広重の題材や構図からインスピレーションを受けたと思われるものが多く見られる。また、北斎や広重が連作作品を多く制作したように、モネも多くの連作を制作した。





対象を描く方法  空間の表現法
 対象を描く時、日本絵画に見られる空間表現は、1節で述べた「吹抜屋台」という鳥瞰的空間表現が、やまと絵独特の絵画法であった(00p図1)。その後、日本絵画の構図に大きく影響を与えたのは、江戸時代、オランダから伝来した遠近法である。北斎の作品に見られる遠近法の表現は西洋絵画から影響を受けた「透視図法」である。この技法は、線遠近法ともいわれ、遠くに行くほど小さく狭く見える効果で遠近を表す方法である。北斎の初期の作品にはそれがわかりやすく表現されている。北斎の構図はのちに進化し、手前のものは大きく、遠くのものを極端に小さく表現する浮世絵独特の遠近法に変わって行った。
 また、中国からの影響が深い山水画は、「空気遠近法」という技法が使われていることが多い。空気遠近法は、遠くのものがぼやけて薄っすら映り、手前のものははっきり鮮やかに描かれる技法である。光のタッチで描くモネの作品は、空気遠近法に近い表現法であるが、輪郭というものが存在しないモネの技法は、より進化を遂げた画法だと考えられる。また、モネは、浮世絵の構図からインスピレーションを得て、独特のタッチで表現していったと思われる。 このように、空間表現の面で、日本と西洋の絵画はお互い影響しあうことによって、発展していったといえる。この発展の過程が、現代の日本人が描く絵にどのように結びついているのか、考えていきたいと思う。





時間に対する概念

 ここで、時間という概念について考えていこうと思う。まずは、浮世絵と印象主義絵画の時代背景について考察する。
 町民文化が栄えた江戸時代における浮世絵は、版元、版下絵師、彫師、摺師などの職人で成り立つ、商業資本を背景とする企業的な商品生産に基づくものであった。庶民が求める庶民的な風俗を描き、それを庶民が手にすることができた。
 日本の江戸時代とは、近世封建社会の時代であった。国民の自己意識の面でみると、国民は経済生活のなかで放任されながらも、士農工商といった階級制度に囚われた中に置かれ、抑圧された状況にあった。そのような状況では、国民意識は発展途上の状態であったと思われる。
 一方、その頃のフランスは、王政が廃止され封建社会から近代社会に移り変わった頃である。それまで王侯貴族や、教会といったパトロンのもとで、庇護されていた画家が、自立しなければならなくなった厳しい時代でもあった。描かれる題材は、肖像画や宗教的なものから、庶民の風俗的な暮らしに目を向けられるようになっていった。パトロンに代わり、画商が出現した時期でもある。
 フランス国民は市民革命をすでに経験し、近代的自我に目覚めた個性主義的精神を基盤として持っていたといえる。ここには、日本とヨーロッパでは、おそらく百年の発展の差があると考えられている。

 さて、19世紀ヨーロッパの古典社会学は、社会変動論についてこのように述べた。段階的に発展するという「階段モデル」と、樹木が枝分かれしていくように発展していく「枝分かれモデル」という二つの側面をもつ進化論で唱えた。しかし、ヨーロッパの古典社会学および現代アメリカの社会学により、社会変動論は「枝分かれモデル」を含めて「階段モデル」を前提としていると考えられている(鶴見,1998(10))。
 この西洋の「階段モデル」社会変動論に対して、柳田国男は「垂氷(つらら)モデル」という時間概念を考えた。柳田は、階段モデルでは日本の社会変動を捕まえることは難しいとした。原始−古代−中世−近代という、階段モデルのはっきりとした時代区分は、ヨーロッパ社会の分析にはあてはまるだろうが、日本の社会にはあてはまらないと柳田は考える。日本においては、原始も、古代も、中世も、近代も、入れ子細工のように存在し、垂氷のように、ところどころにぶら下がっていると考えた。
 このモデルによれば、原始や古代の構造は、必ずしも価値の低いものではないし、近代の構造が必ずしも高いものではない。階段モデルに比べて、垂氷モデルは価値に対して中立である。
 地球上にはいま、原始、古代、中世、近代、そしてさらに近代をこえようとする社会、およびそれらの混合型など、種々雑多な構造が混在している。これらの多用性を、実証的にとらえるのが、垂氷モデルの強みであると鶴見は考える(鶴見,1998(10))。

 「やまと絵」といわれた日本独特の絵画には、屏風や襖絵では、春夏秋冬を描く「四季絵」、1月から12月までの景色を描く「月並絵」という画題があり、また、絵巻物は物語を描いている。順を追ってそれらの絵画を鑑賞すると、一見「階段モデル」的な移り変わりを表現しているように見られるが、一つの部屋に存在している屏風や襖絵、また一巻として存在している絵巻物として捉えると、「垂氷モデル」的な要素がある作品だといえる。
 浮世絵に関しても、北斎の『富嶽三十六景』の連作については、一枚一枚はその時の一瞬を絵にしたものであるが、富士を主体としたいろんな場面を描いていることから、垂氷モデル的要素があると感じられる。浮世絵の連作は、他に広重の『東海道五十三次』など数多く見られる。このように、浮世絵にも垂氷モデルの要素があったならば、印象主義の画家たちはそういった面においても、影響を受けていたと推測される。





モネの考える時空間

 西洋のもつ時間概念は階段モデル、日本のもつ時間概念は垂氷モデルによって社会変動を表せられるという考えをもとに、垂氷モデル的な時間概念に基づいて描かれたモネの作品に注目したい。
 モネは、浮世絵の影響もあり、自身の作品でも連作を数多く残している。『睡蓮』がその代表作とされているが、他に『ルーアンの大聖堂』という連作が33点ほどあり、ほとんど同じ構図で描かれている。いずれも『朝の効果』『夕暮れ時』といった指標が題名に付与されている。
 制作時間がかかる場合、対象を見て描いているあいだに、自分が最初に感受した印象がどんどん変わっていく。それが一つの場所だとしても、その一つの場所に複数の現在、複数の瞬間が積層化し、積み重ならざるをえないことになる。モネの『ルーアンの大聖堂』は、そのような考えに基づいて描かれている。そこには、時間という要素を欠落させた形で表現が展開していく。対象を見て画面に向かっていると、描いている時間が経過するにつれて、対象の光は常に移動している。それを画面の上で少しずつ変更していく。
 印象主義の画家が経験した現象は、キャンバスに向いた視線をもう一度対象に戻した時
に、対象が同じものであるという保証がまったくないということである。そういう意味で、一枚の『ルーアンの大聖堂』の絵には、複数の『ルーアンの大聖堂』の絵が重なり合っている。それぞれの瞬間に見たものの記憶が重なり合う。重なるところにエッジが出てくるという(佐々木,2003(11))。
 浮世絵と印象主義の絵画に、垂氷モデルという時間概念的要素のコミュニケーションが見られると考えられる。





光の反射で描く

 前項で取り上げた作品で見られるように、モネの絵は、光の反射を描く表現をとっている。対象物であるものの実体を描いているのではなく、筆のタッチが光の点として置かれている。 そういった印象主義の絵画は、当時まったく新しい技法での形態表現であり画面構成であった。当初は印象主義の絵画は受け入れられず、評価は低かった。その新しい表現とは、光の反射で対象物の実体を捉える方法で、それまでの光と影で対象物の実体を描いていく方法とまったく異なった表現法である。分散した光による反射を表現したタッチの結集が、対象物の実体に存在感を表す。
 印象主義に影響を受け、新印象派の創始し、後期印象派の代表者となったスーラ(Seurat,Georges 1859-1891)のタッチからは、より光の反射を意識した画法がうかがえる。スーラは、光学理論や色彩論の研究し、光と色彩の調和や形態による構図の均衡を追求した。その画法はすべて点描によって表したものである。光の反射によって物の実体を表現する究極の表現法を生み出した。

r035【図31】モネ『ルーアン大聖堂』1892

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【図32】スーラ『グランド・ジャット島の日曜の午後』 1884-1886  205.7×305.8p

 

【参考文献/引用図版】
(6)中村 英樹 著「新・北斎万華鏡」美術出版社 2004.4
(7)中右 瑛 著「北斎七つのナゾ」2002.11
(8)大島 清次 著「ジャポニスム 印象派と浮世絵の周辺」美術公論社 1980.5
(9)ジュード・ウェルトン著「ビジュアル美術館 第2巻モネ」同朋舎出版 1993.10
(10)鶴見 和子 著「鶴見和子曼荼羅W 柳田国男論」藤原書店1998.5
(11)佐々木 正人 著「「レイアウトの法則 アートとアフォーダンス」春秋社2003.7
【図 7】永田 永慈 著「北斎の絵手本1」岩崎美術社 1986.6
【図 8】中村 英樹 著「新・北斎万華鏡」美術出版社 2004.4
【図 9】中村 英樹 著「新・北斎万華鏡」美術出版社 2004.4
【図10】中村 英樹 著「新・北斎万華鏡」美術出版社 2004.4
【図11】ジュード・ウェルトン著「ビジュアル美術館 第2巻モネ」同朋舎出版 1993.10
【図12】ヘンリー・スミス著「広重名所江戸八景」岩波書店 1992.3
【図13】シルビィ・パタン著「モネ――印象派の誕生」創元社 1997.6
【図14】カーラ・ラックマン著「岩波 世界の美術 モネ」岩波書店2003.12
【図15】ジュード・ウェルトン著「ビジュアル美術館 第2巻モネ」同朋舎出版 1993.10
【図16】大島 清次 著「ジャポニスム 印象派と浮世絵の周辺」美術公論社 1980.5
【図17】六人部 昭典 著「モネ《睡蓮》への歩み」六耀社 2001.3
【図18】六人部 昭典 著「モネ《睡蓮》への歩み」六耀社 2001.3
【図19】ジュード・ウェルトン著「ビジュアル美術館 第2巻モネ」同朋舎出版 1993.10
【図20】カーラ・ラックマン著「岩波 世界の美術 モネ」岩波書店2003.12
【図21】カーラ・ラックマン著「岩波 世界の美術 モネ」岩波書店2003.12
【図22】ジュード・ウェルトン著「ビジュアル美術館 第2巻モネ」同朋舎出版 1993.10
【図23】ジュード・ウェルトン著「ビジュアル美術館 第2巻モネ」同朋舎出版 1993.10
【図24】永田生慈 監修「北斎美術館5 物語絵」集英社 1990.12
【図25】後藤茂樹 編集「浮世絵体系8 北斎」集英社 1975.10
【図26】フリー百科事典「ウィキペディア」HPサイトhttp://ja.wikipedia.org/wiki/
【図27】シルビィ・パタン著「モネ――印象派の誕生」創元社 1997.7
【図28】ジュード・ウェルトン著「ビジュアル美術館 第2巻モネ」同朋舎出版 1993.10
【図29】シルビィ・パタン著「モネ――印象派の誕生」創元社 1997.7
【図30】シルビィ・パタン著「モネ――印象派の誕生」創元社 1997.7
【図31】ジュード・ウェルトン 著「ビジュアル美術館 第2巻モネ」同朋舎1993.10
【図32】テレビ東京「美の巨匠たち」HPサイト http://www.tv-tokyo.co.jp/kyojin

 



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【図7】略画早指南 1812年頃


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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【図8】『富嶽三十六景・
神奈川沖浪裏』1831年 出版


 

 

 

 

 

 

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【図11】写真:モネの自宅 
ジェヴェルニーの庭


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【図12】安藤広重『亀戸天神境内』1856

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【図13】モネ『睡蓮の池』1899 89×92cm

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【図14】モネ『草上の昼食 最終の油彩習作』1886

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【図15】マネ『草上の昼食』1863 208×264cm

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【図16】懐月堂安知『立美人図』

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【図17】モネ『緑衣の女』1866 231×151cm

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【図18】モネ『ラ・ジャポネーズ』1867

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【図19】モネ『印象、日の出』1872 48×63cm

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【図20】北斎『富嶽三十六景 江戸五百羅漢寺さざえ堂から見た富士』1829 23.9×34.3cm

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【図21】モネ『サンタドレスのテラス』1867 98.1×129.9cm

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【図22】安藤広重『満月の佃島』

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【図23】モネ『赤いボート』1875 55×65cm


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【図24】透視図法の例  
北斎『新板浮繪忠臣蔵 第弐段目』1802(宗理期、42歳頃)


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【図25】 
北斎『北斎_富岳三十六景_神奈川沖浪裏』1831(為一期、71歳頃)

            

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【図26】空気遠近法の例 長谷川等伯『松林図屏風』1600年こ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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【図27】モネ「ルーアン大聖堂
朝の効果、白のハーモニー」
1892〜1893 100×73cm


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【図28】モネ「ルーアン大聖堂
陽光の効果、日の終わり」
1892〜1893 100×65cm

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【図29】モネ「ルーアン大聖堂
朝の陽光、青のハーモニー」
1892〜1893 91×63c

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【図30】モネ「ルーアン大聖堂
灰色とバラ色のシンフォニー」1892〜1893

 

 

 

 

 



                 
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