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史 跡
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定願寺へ
楠木一族の足跡へ
楠木正長旧蹟 所在地:生野区巽南4丁目 巽神社飛地
最寄駅:地下鉄千日前線「南巽」下車、南へ約200m、新巽中学校の東北角
楠木正長楠木正成の孫にあたり、1372年(文中元年)に隣村の加美・正覚寺村で正成の三男の左馬頭正儀の三男として生まれ、四条桑原寺の僧、祐存に養育された。
 子供の頃より志気はなはだ剛強で文武両道に励み、成長するに及んで還俗し、右京進正長を名乗った。22歳の頃より、 楠木一族の霊を弔うため、父祖の戦跡を巡り、四条畷山麓にも住居している。
 1412年(応永19年)桑原寺の近くにあった天神社隠栖し、四条居士と称し、北朝よりの招請を拒み、楠木一族の慰霊に専念している。本願寺の巧如上人に帰依して 名を定願と改め、法名にちなんで定願寺を創建、多くの村民を教化した。1468年(応仁2年)97歳で没している。

[参考資料] 『楠木正長旧蹟現地解説板』 大阪市建設局、
         『定願寺沿革』 定願寺
楠木正長旧跡記念碑全景 楠正長旧跡記念碑
楠木正長の旧跡記念碑が建つこの地は元は天神社があったとのことであるが、その面影を伝えるものは下の写真のクスノキが残るのみである。記念碑の揮毫は定願寺17世楠超道の筆になる。
このあたりは元は河内国渋川郡四条村と云い、この碑のあるところは楠木正長が隠栖した、天神社のあったところで「遠宮さん」と呼ばれていた。
当時は広大な森や池、小高い山もあったようで、ここに正長が住居を構えていたとのことである。
同じ敷地内に建てられている歌碑。
「新古今和歌集」に採られている藤原光俊が詠んだ歌
『霜枯の横野ノ堤風冴えて 入汐遠く鳴なり』

詠まれている「横野ノ堤」は日本書紀に記載の仁徳天皇13年に築かれた「横野堤」ことで、この堤は片江から巽・田島を経て正覚寺に至るまでに築かれたと見られる。

なお、この碑の書は北畠顕家の墓王仁博士の墓を特定したあの並川誠所の筆跡である。

史跡-111/TTL-434

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