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有名人・文化人墓所
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武内確斎の墓 所在地:大阪市天王寺区餌差町 伝長寺
最寄駅:JR環状線「玉造」下車、玉造筋を南へ、バス停「真田山」を西へ、明星学園手前
武内確斎は江戸後期の戯作者。当時のベストセラー作品『絵本太閤記』の作者として、後世に名を残した。
 確斎は1765年(明和2年)大坂の生まれ、名は温、字は子玉、通称西右衛門。3歳の時姉の嫁ぎ先の武内家の養子となる。9歳で養父をなくし、養父がやっていた町代(町年寄りの世話役)の役柄をこなすために、昼夜書物を離さず学問に励み、14、5歳になると、町代の役目を立派に務めたという。
 長じて、篠崎三島に師事、「梅花社」で学んだ。天性の文才で、詩賦を吟ずるが、特に1797年(寛政9年)、挿絵を岡田玉山と組んで出版した『絵本太閤記』は大変な人気を博した。
 確斎は文筆を余技と考えていたので、こでれ筆を折るつもりだったが人気に押され、結局これに答える形で、1802年(享和2年)までの5年間で刊行されたものは7編84冊にも及んだ。巷間、秀吉の出世物語として残るものの大半は、この『絵本太閤記』の創作と言われている。
 このヒット作品も、1804年(文化元年)突如絶版を命ぜられている。その理由は幕府が豊臣家の人気が高まることに危惧したことによるともいわれているが、定かではない。他に岡田玉山とのコンビで『絵本玉藻譚』、『阿世可之譚(あやかしものがたり)』などを出版している。1811年(文政5年)55歳で没した。 墓は天王寺区餌差町の伝長寺にある。
岡田玉山:江戸後期の画家。1737年(元文2年)大坂生れ。名は尚友、字は子徳、別号に金陵斎。画を初め中井藍江に学び、のち月岡雪鼎に師事する。当時の上方における絵本挿絵画家の第一人者で風俗、人物を得意とした。近世刻版密画の祖といわれる。のち法橋に叙せられた。1812年(文化9年)75歳で没した。

[参考資料] 『大阪人物事典』 三善貞司編 清文堂出版社
伝長寺山門 伝長寺山門。
明星学園と道を挟んで向かい側、この辺りは真田山と呼ばれる所の頂点にある。
門前の前の道の勾配が良く判る。
武内確斎の墓-1 武内確斎の墓-2
武内確斎の墓。
墓標は「確斎武内翁の墓」とある。墓の上部の笠の部分が一部破損している。正面の題字は頼山陽、周りの碑文は篠崎小竹の撰及び書になる。
伝長寺には武内確斎と並んで、同じく篠崎三島の門下生の墓がある。右より渡辺長城、武内確斎、広瀬築梁の墓。広瀬築梁の墓が一番状態がよい。
渡辺長城、広瀬築梁の墓とも篠崎小竹の撰並書。

渡辺長城(ちょうじょう):江戸後期の儒者。1771年(明和8年)阿波の生まれ、1827年(文政10年)57歳没。

広瀬築梁(ちくりょう):江戸後期の儒者。1781年(天明元年)大坂で生まれる、1843年(天保14年)63歳で没。
武内確斎の墓-3

文化人墓-052/TTL-477

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