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神社めぐり 忍陵神社
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忍陵神社 所在地:四條畷市岡山2丁目
最寄駅:JR学研都市線「忍ヶ丘」下車、東へ徒歩約400m
忍陵(しのぶがおか)神社の前身は、『延喜式』神名帳に見える讃良郡の「津桙(つのほこ)神社」という。もとは現在地より東方約900mの岡山村坪井の通称赤山と呼ばれるところに鎮座していたが、江戸時代中期に現在地に移建された。
 1882年(明治15年)の『岡山村誌』に「津桙神社 式内村社、八幡宮・新宮太神・藤原鎌足を祭る」とあり、津桙神社に砂の馬守社・大将軍社の2社を合祀した1911年(明治44年)現在の社名に改称している。
  社名変更の際、おかの字に陵を充てているように、ここは古くからこの丘は古墳であると認識されていたらしく、当初は「しのびのみささぎ神社」とよんだとも伝わる。
1935年(昭和10年)前年に台風の被害を受けた社殿の修復工事中、前方後円墳の竪穴式石室が発見され、社殿の横に覆屋を建て、「忍岡古墳」として保存されている。
  また、この丘陵を利用して、戦国時代に三好長慶が飯盛山城を居城とした頃に、支城として岡山城が築かれたと伝えられており、フロイスの『日本史』には、城主一族の結城山城守忠正(アンリケ)やその息子の左衛門尉忠正(アンタン)などがキリシタンとして登場する。
 1615年(慶長20年)の大坂夏の陣では、徳川秀忠の本陣として同地が使われ、徳川方が勝利した事から縁起の良い所として御勝山とも称されるようになったという。この話は大阪市生野区にある岡山(御勝山)との話と共通しており、偶然が重なったものか。ついでながら、このとき家康交野の星田に陣を設けたという。なお、この岡山城の遺構は殆ど破壊されており、その名残を見る事は出来ない。

[参考資料] 『現地案内板』 忍陵神社
         『日本歴史地名体系』(大阪府の地名編) 平凡社
忍稜神社入口参道 忍陵神社への登り口。
忍陵神社拝殿。
拝殿の前は狭く、拝殿全景写真をととろうとすると、階段を降りなければならず、降りれば全景が入らないという、中途半端なアングルになってしまった。
忍稜神社拝殿
忍稜神社東側鳥居 忍陵神社の東側の鳥居。
かっては東側が社殿の正面であったが、1934年(昭和9年)の室戸台風で破損。翌年、現在の南向きで再建された。


神社の境内に大きな歌碑が建てられている。
碑には「忍の岡古歌」とあり、最初2首には「忍び岡」が詠まれている。あとの2首には地名が入っていないが歌を詠んだのがこの地であるとされる。

「待人になど かたらはで 郭公のひとり 忍びの岡に鳴らん」 法印覚寛(新後撰和歌集)
「見し人の忍の岡の花すすき なびくは招く 心地こそすれ」 登蓮法師(夫木和歌集)
「ちはやぶる神やきりけん つくからに ちとせのさかも こえぬべら也」 僧正遍照(古今集)
「雪ふれば 木ごとに花ぞ さきにける いづれを梅とわきておらまし」 紀友則(古今集)


忍の岡歌碑

忍稜古墳跡
本殿の横には忍岡古墳があり、石室は覆屋で保護されている。
忍岡古墳は1934年(昭和9年)、室戸台風により社殿が倒壊したが、翌年その再建工事中に前方後円墳の竪穴式石室が発見された。

古墳は全長87m、4世紀中ごろに作られた。大阪府の文化財に指定。

[2008年4月25日参拝]

神社-106/TTL-637

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