大阪再発見の表紙に戻る
霊場参拝
河内西国33所観音霊場 河内三十三所観音霊場
第11番
ロゴをクリックすれば
一覧表に戻ります
多慶山 明尾寺 所在地:枚方市山田池南町
最寄駅:で、「出屋敷」(山田公園前)下車、徒歩15分
当山は院号を万法蔵院といい、寺伝によると、本尊十一面観音は用明天皇のとき、高麗の沙門徳胤が持ち帰り、聖徳太子に賜ったもので、太子の弟麻呂子がこの観音を本尊として当山を開創したと伝わる。その後、弘法大師が留錫して真言宗になったという。
1801年(享和元年)刊行の『河内名所図会』には「寺説云、初は中将姫の開基也とぞ、土人、元当麻と呼ぶ、本尊十一面観音、長2尺許」とある。
 奈良県葛城市にある當麻寺の縁起は、元は河内の交野郡山田郷に建てた万宝宝蔵院に始まるとし、その後、681年(天武10年)に麻呂子の孫にあたる當麻国見(たいまのくにみ)が大和国・當麻の地に移し、この地方の豪族當麻氏の氏寺として整備したと伝えている。
また、當麻寺には中将姫に関わる伝説も残されており、この明尾寺の縁起と相通ずる部分が多く、古代にはこの2寺院は何らかの関わりがあったものと思われる。
 1441年(嘉吉元年)の『興福寺官務牒疏』には「明尾寺在同郡 城州普賢寺別院 慈訓僧正開基 坊舎九宇」とあり、開基は天平時代の奈良興福寺の僧慈訓としており、興福寺の支配下にあったことが記されている。
 南北朝時代には、当地を支配していた中原氏が率いる津田党や獅子窟寺の衆徒、交野郷士らと共に津田城で楠木正儀を助けたとも伝える。
 大坂夏の陣の兵火で諸堂宇は焼失、その後元和に復興された堂宇も1936年(昭和9年)の室戸台風により、倒壊。現在の堂宇は1962年(昭和37年)に小伽藍が再建され、1962年(昭和57年)に大悲殿、霊名殿、諸仏像などが落慶した。

[参考資料] 『現地案内碑』
         『日本歴史地名体系』(大阪府の地名編) 平凡社
明尾寺山門 明尾寺山門。
明尾寺本堂。
本尊は十一面観世音菩薩。
明尾寺本堂
明尾寺鐘楼 明尾寺鐘楼モダンなデザインである。
手前石造は聖観音立像。
歴代住職の墓 境内墓地に建つ地蔵尊
境内墓地の一角にある歴代住職の墓。
元文、明和、寛政、など江戸中期の墓石が見られる。
境内墓地に中に建つ六地蔵。
ご朱印
河内三十三所観音霊場
明尾寺朱印
[2008年8月20日参拝]

寺院-247/TTL-659

1つ前に戻る このページの上に戻る 表紙に戻る

Copyrightc2015.Yoshi Planning.All rights reserved. 写真及び文章の無断使用は禁止します。