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所在地:奈良県吉野郡吉野町吉野山
最寄駅:近鉄吉野線「吉野」駅からロープウエイに乗換え、
終点「吉野山」駅から徒歩で約10分
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当山の名前である「金峯山」とは吉野山から山上ヶ岳にかけての連山の総称で、古代より広く知られた聖域であった。この金峯山に7世紀後半の白鳳年間(650〜54年)役行者が入山し、山上ヶ岳において金剛蔵王権現を感得、その姿を桜の木に彫って、山上ヶ岳(現大峯山寺)と吉野山(現金峯山寺蔵王堂)に祀ったのを草創とする。その後、平安、鎌倉時代に隆盛を極め、源義経が潜み、後醍醐天皇が南朝の御所を造るなど、歴史の表舞台に度々登場する。
明治の神仏分離令により、1874年(明治7年)修験道が禁止され、金峯山寺は一時期、廃寺となったが、1886年(明治19年)天台宗末の仏寺として復興。1948年(昭和23年)には、蔵王堂を中心に、金峯山修験本宗が立宗し、その総本山として今日に至っている。
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[参考資料] 『役行者霊蹟札所巡礼』 役行者霊蹟札所会編 (株)朱鷺書房
『現地解説板』 吉野町観光課 |
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北側に面して建つ仁王門(国宝)。高さが20mもある巨大な門で、階段の下が吉野山を回遊する県道になっている。
1333年(元弘3年)に、鎌倉幕府の二階堂道蘊が、大塔宮護良親王を攻めたとき、焼失し、1338年頃(延元3年)に再建されたが、1348年(正平3年)足利尊氏軍の将、高師直の兵火で焼かれ、1455年(康正元年)に再建された。
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金峯山寺 の「総門(黒門)」.
この様な様式の門を高麗門と云い、城郭によく用いられ、昔は公家大名と云えどもこの門からは、槍を伏せ、下馬して通行したと云う格式を誇っていたとのこと。 |
金峯山寺の「銅(かね)の鳥居」。
鳥居(重文)は日本3大鳥居の1つ。(他は安芸の宮島、大阪四天王寺の鳥居) 初代は奈良時代とされるが、度々の火災で現在のものは1455年(康生元年)再建。 |
蔵王堂は1592年(天正12年)に再建された安土桃山時代最大の建築物で、国宝に指定されている。
堂内の3体の金剛蔵王権現は秘仏だが、ユネスコ世界遺産に登録された記念行事として,今年(平成16年)の7月1日から来年6月30日までの一年間特別開帳されている。
蔵王堂の前に建つ「大塔宮御陣地」
の碑。大塔宮護良親王は後醍醐天
皇の皇子。1331年(元弘元年)の
元弘の変の失敗で後醍醐天皇が隠
岐に流された後、楠木正成らに令旨を発し、挙兵。吉野の僧兵の力を頼り、鎌倉幕府に抵抗した。
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境内にある大塔宮護良親王の臣、「村上義光公忠死之地」の碑(左側)と県道沿いにある義光の墓(右側)
村上彦四郎義光は、信州埴科の人で、大塔宮に従って鎌倉幕府と戦い、1333年(元弘3年)大塔宮の鎧兜を借り、その身代わりとなり、蔵王堂前の二天門の高櫓に上がり、腹をかき切って果てた。義光の子の義隆も、父の後を追って死のうとしたが、宮を守って落ち延びる様に諭され、高野山へと向かう途中、この近くの山中で討死している。 |
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境内の南側、「二天門跡」を下りた直ぐ横にある「後醍醐天皇導きの稲荷」。
現地の解説板によると『北朝方との対立が激しくなり、密かに都を脱出した後醍醐天皇は、1333年(延元元年)12月、吉野山の行宮に入ったが、途中夜道で迷い、とある稲荷の前で「むば玉の暗き闇路に迷うなり我に貸さなむ三つのともし灯」と歌を詠んだところ、ひとむらの紅い雲が現れ、吉野への道を照らし導き、その雲は、金の御岳(吉野山)の上空で消え失せたと伝わる。』
その時の稲荷を勧請したのが、この「導きの稲荷」とのことである。 |
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役行者霊蹟札所 |
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[2004年10月3日参拝] |
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