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史 跡
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桜田門外の変 大坂編 (1) 所在地:
四天王寺:大阪市天王寺区四天王寺町1丁目
生国魂神社:大阪市天王寺区生玉町

生国魂神社を参拝した折、神社の表参道の脇に石碑が2基建っていた。1つは『島 男也(しま おのや)旧居』碑で1944年(昭和19年)の建立、もう1つの『川崎孫四郎自刃の所』碑は1969年(昭和44年)に建てられている。

傍らの「関西茨城県先賢士顕彰会」が建てたの立て札を読んで見ると、1860年(安政7年)3月3日の水戸浪士による、大老井伊直弼殺害事件、いわゆる「桜田門外の変」に時を併せ、大阪でも挙兵を図ろうとして、未遂に終わった事件があったことがわかった。興味を持ち、事件の内容を調べてみたが、以下、簡単に紹介する。

四天王寺墓地に、高橋多一郎荘左衛門親子の墓があるが、この高橋多一郎という人は水戸の藩士で、「桜田門外の変」で首謀者の金子孫二郎とともに指導的な役割をつとめた人物である。
井伊直弼の「安政の大獄」に関連し、主君水戸斉昭が国許に蟄居を命じられた後は、尊皇攘夷の過激派となって活動。薩摩の勤皇の志士と通じ、東(江戸)で直弼を倒し、西(大坂)で義兵を挙げ、天朝を奉じて幕政を改革しようという計画を立てた。

高橋多一郎は大坂での決起を担当し、息子の荘左衛門や同志と共に3月6日に来坂し、挙兵の準備にかかったが、頼みの薩摩が、大久保利通らの統制で慎重論に変わり、立ち上がる様子がなく、そのうちに「桜田門外の変」の下手人狩りが始まり、身動きが取れなくなった。江戸の事件の首謀者金子孫二郎は上方まで逃げて来ていたが伏見で捕まった。

万延元年(注:3月18日に年号が安政から万延に変わった)3月23日早朝、身を寄せていた生国魂神社の神官島男也宅を大坂東西の奉行所の捕り方が取り囲み、多一郎父子は捕吏に囲まれ、四天王寺に移動、多一郎は茶店の床机で短刀を腹に突き立て、切腹をしかけたが、茶店の亭主に立退きを言われたため、腹を押さえながら、四天王寺の門内に入り、寺侍小川欣司兵衛方で切腹。荘左衛門も後を追い切腹した。多一郎47歳、荘左衛門19歳であった。

[参考資料] 『大坂歴史散歩』 徳永慎一郎著 創元社


大阪市天王寺区 生国魂神社に建つ「川崎孫四郎自刃の所」、「島男也之旧居」の碑
川崎孫次郎の碑 生国魂神社の表参道の脇にある「水戸藩士 川崎孫四郎自刃の所」碑(左側)と「笠間藩士島男也之旧居」碑(右側)。川崎孫四郎の碑は曾孫に当たる人が建立。
川崎孫四郎は水戸から高橋多一郎父子とともに来坂。
ここが死に場所となった。
島男也は捕われた後、江戸送りとなり、伝馬町の獄舎で死亡している。
両人とも、事件当時は犯罪者であったが、後に「正5位」を贈位されている。時代とともに評価が変わったのは
その後の日本の歴史を表わしている。


大阪市天王寺区 四天王寺に建つ高橋多一郎、荘左衛門親子の墓
四天王寺墓地「大三元堂」の脇にある高橋多一郎、荘左衛門親子の墓。墓は写真中央の小さな墓標で「御霊消滅」とある。
多一郎は切腹に際し、小川欣司兵衛に所持金を渡し、後始末を頼んだ。当初の墓は欣司兵衛は建てが、破損がひどく、1968年(昭和62年)に再建されている。
周りの大きな碑は顕彰碑で、右側の一番大きな碑は「高橋君原瘞(げんえい)之地碑」1903年(明治36年)の建立。

左側の位牌型の碑は「闓門(こうもん)殉難」とあり、1864年(元治元年)水戸藩の鮎沢伊太夫の建立。

闓門とは一家じゅうという意味で、高橋父子を指す)
高橋多一郎墓-1
「高橋父子原エイ処」の碑 四天王寺西門四天王寺学園前にある「高橋父子原瘞処」の碑。父は「正4位」、子は「従4位」が贈位されている。

 (エイの字は[やまいだれ]の下にを書き、原瘞とは最初に葬られた場所を指す)

史跡-059/TTL-272

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