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史 跡
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・08/10/15  丸山古墳跡追加



阿倍野の塚・古墳   松虫塚:
  播磨塚・小野塚
  経塚
  丸山古墳跡
松虫塚 所在地:大阪市阿倍野区松虫通1丁目
最寄駅:市バス「東天下茶屋」下車、松虫通り西へ、約100M
松虫塚-1 松虫塚-2
この一角には「松虫塚」と彫られた石碑が沢山建っている。中には屋根つきの石碑(右側の写真)もあり、これが一番年代物と思われる。
この松虫塚の伝説には、いろいろと伝えられているが、その1つに『後鳥羽上皇(1183〜98年)の官女松虫、鈴虫法然の念仏に発心し、1207年(承元元年)法然が土佐に流されたのちに、松虫がこの地に庵を結び隠棲した所であるとの説(「芦分船」)』。
 また、『昔、ある人が親友と二人で阿倍野の松原を通ったが、うちの一人が松虫の音に聞きほれ、草むらに分け入ったまま帰らないため、捜しに行くと友人は草のしとねで死んでいたので、泣く泣く友人を葬ったのが松虫塚であるとする説(謡曲「松虫」)』や、ほかにいくつかの伝説が残っている。

播磨塚・小野塚 所在地:大阪市阿倍野王子町4丁目
最寄駅:市バス「北畠公園前」下車、阿倍野筋を南へ、約200M
左手
住宅地の一角にある播磨塚と小野塚。この両塚はもともと別個のもので、以前は現在地に近い西北の畑の中にあったが、1929年(昭和4年)に道路となったため、現在の場所に移されている。
現地の解説板(「阿倍野区史跡顕彰会」)によると、「播磨塚」は、南北朝の頃、住吉の合戦で南朝の忠臣楠正行と戦って敗れた播磨の太守、赤松円心の子貞範が、戦死した将兵の遺骨を納めて塚を築き、播磨塚と名付け部下の冥福を祈ったと伝えられている。
また、「小町塚」は、古書「芦分船」には、小野小町の塚であると説明しているが、小野小町がこの地で死んだという記録はなく、小野小町の美貌や才能にあやかりたいとの念願から、信仰などの目的のため造られたものと思われる。
小野塚と播磨塚

経塚 所在地:大阪市阿倍野区阿倍野元町、晴明丘公園内
最寄駅:市バス「北畠公園前」下車、信号を渡り西へ、阪堺線手前
「もと熊野街道」を北へすぐ、公園の入り口にあり
経(きょう)塚の碑 晴明丘公園にある経塚。この石碑は元は、現在北畠顕家の墓となっている「将軍塚」の近くの塚に建てられていたが、道路工事などで転々とし、昭和の初期ごろから北畠公園の北の民家の前庭に移されていた。1995年(平成7年)に、現在地に移転。
この塚の由来については、聖徳太子が諸経の文字を、一字ずつ一石に書いて、塚に納めたとする説と、阿倍王子神社の縁起書である「阿倍権現記」に826年(天長3年)の夏、疫病流行に際し、弘法大師が、王子神社に入り一千部の薬師経を書写し、塚に納めたとする二つの説がある。いずれにしてもこれらの塚は現在地とは何の関係もなく、石碑のみが由緒あるものらしい。

丸山古墳跡 所在地:大阪市阿倍野区丸山通2丁目
最寄駅:阪堺電鉄「松虫」下車、阿倍野の方に戻り、阿倍野警察署の手前の信号を西に入る約400m。東急ドエル・アルス前
丸山古墳跡の碑 丸山古墳跡地に建つマンション

丸山古墳のあった場所にはマンションが建っている。
石碑の側面にはここが古墳の東側の端であることが記されている。
丸山古墳が在ったとされるこの辺りは現在では住宅地になっており、その面影は全くない。
丸山古墳は1796年(寛政8年)に刊行された『摂津名所図会』では「兼好古墳」とあり、兼好法師がこの地に隠棲していたとの言い伝えが古くからあったと思われる。
阿倍野区役所のホームページには、その昔には、「円形の古墳の頂きには長方形と宝冠杉の石塔2基が安置されていたと伝え、一見して貴人の墳墓であることが見取られ、その形状から丸山古墳と呼ばれていたが、1923年(大正12年)、古墳の表土が鋳物用に好適の土であるということから採掘され、その折、石棺、香炉など多くの埋葬物が発見された」という。
しかし、「今日の ように考古学が発達していない時代のこと、調査研究等一切行われず、丸山古墳はその出土品とともに姿を消してしまった」ということで、返す返すも残念という外はない。

史跡-019/TTL-148

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