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史 跡
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大坂蔵屋敷跡 (1) 所在地:
黒田藩長屋門:大阪市天王寺区茶臼山町 天王寺公園内
中津藩跡:大阪市福島区福島1丁目
高松藩跡:大阪市北区中之島5丁目
薩摩藩跡:大阪市西区土佐堀2丁目:
大坂蔵屋敷とは、大名が知行地からの徴収物を売りさばき、上方でのみ入手しうる必需物資を購入し、財政資金を調達し、その元利を支払うため、元和期(1615〜24年)以降、大阪に設けた倉庫と管理事務所と詰役の宿舎からなる施設である。
 天下の台所となった江戸時代の大阪は水運の便利さもあって、堂島、中之島あたりに各藩の蔵屋敷が
建てられた。大阪に蔵屋敷を設けていた大名(藩)は1655年(明暦元年)には66だったものが、1703年(元禄16年)には90、1835年(天保6年)には103に達している。 更に、ピーク時にはその数は124に及んだと確認されている。
1871年(明治4年)の廃藩置県により、蔵屋敷は廃止され、官有に帰し、程なく民間に払い下げられた。

[参考資料] 『地方史事典』 地方史研究協議会編 弘文堂

黒田藩蔵屋敷長屋門
旧黒田藩蔵屋敷長屋門-1 天王寺公園内に移築されている福岡黒田藩の「蔵屋敷長屋門」
数少ない蔵屋敷遺構の一つで、1933年(昭和8年)中之島三井ビル建設に際し大阪市に寄贈され、現在、大阪市立美術館の南門となっている

旧黒田藩蔵屋敷長屋門-2
 
 長屋門の前に建てられている
 「旧黒田藩蔵屋敷長屋門」の石碑。

中津藩蔵屋敷跡 中津藩蔵屋敷跡
大阪市福島区福島1丁目、堂島川に面してある「中津藩蔵屋敷跡」の碑と「福沢諭吉生誕地」の碑。
福沢諭吉は1834年(天保5年)当地にあった中津藩
蔵屋敷で生まれた。父百助は諭吉1歳8か月のとき急死、そのため母に連れられ中津へ戻った。中津では儒学を学び、1854年(安政元年)長崎遊学を終え、江戸へ上る途中大坂の蔵屋敷へ立ち寄った。
兄のすすめで翌年3月、緒方洪庵適塾に入門し、
後に塾頭になっている。後、3度にわたる幕府の遣外使節に随行、明治の文明開化啓蒙思想家として活躍、慶応義塾を創設した。

高松藩蔵屋敷跡
高松藩蔵屋敷跡 大阪市北区中之島にあるリーガロイヤルホテルの前庭に「蔵屋敷跡」の石碑がある。当地は讃岐高松藩蔵屋敷跡があった場所である。
江戸時代の学僧、慈雲尊者は1718年(享保3年)この高松藩蔵屋敷に生まれた。13歳のとき大坂田辺の法楽寺で得度し、畿内各地で修行研究を重ね、京都で伊藤東涯に儒学も学んだ。
彼の代表的な著書で、インドの原典を注釈した「梵学津梁」1000巻は今日なお世界の驚異といわれている。

薩摩藩蔵屋敷跡 薩摩藩蔵屋敷跡-1
大阪市西区土佐堀2丁目、三井倉庫の前にある「薩摩藩蔵屋敷跡」の碑。
1868年(明治元年)正月、鳥羽伏見の戦いに際して、この蔵屋敷(上屋敷)と、江戸堀の中屋敷、立売堀の下屋敷の3屋敷の引渡しを幕府から要求され、これを拒絶したため陸奥会津藩兵が攻撃してくることを聞き、自ら火をはなった

この「薩摩蔵屋敷跡」は大阪市顕彰史跡に指定されている

薩摩藩蔵屋敷跡-2

 「薩摩藩蔵屋敷跡」の碑はこ
のビルの右端に建てられて
いる。

史跡-050/TTL-252

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