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史 跡
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新撰組大坂行状記 (1)
 近年の新撰組ブームは衰えを知らないといえる。加えて、昨年(2004年)はNHK大河ドラマ『新選組!』の効果で、京都を始めとする新撰組ゆかりの地は、観光客が押し寄せ、地元は大いに潤ったと聞く。
 その一方で、このドラマは武闘集団である新撰組をあまりにも英雄視するようなシナリオになっているとの批判も多くあったようである。
 自宅近くの図書館で「新撰組」関連の書籍を検索してみると、ここ5年間ほどの間に発行された出版物は優に200冊を超えており、新撰組の活動については語りつくされた感がある。
 彼らの活動の中心は京都であることは言うまでのないが、目と鼻の先にある大坂でも数々の事件を引き起こしている。しかし、大阪に観光客が押し寄せたとの話は聞かなかった。そこで、それらの事件の現場とゆかりの人たちの墓所を訪ねてみることとした。
内山彦次郎暗殺事件 所在地:
蜆橋跡:大阪市北区曽根崎新地1丁目
西町奉行所跡:大阪市中央区本町橋
天神橋:大阪市北区中之島1丁目
内山彦次郎の墓:箕面市箕面8丁目 寒山寺
1864年(元治元年)5月20日の夜、大坂西町奉行所与力内山彦次郎は勤めを終え、駕籠で天神橋に差し掛かった時、左右から数人の浪士が躍り出て、駕籠に刀を突き立て、彦次郎を引きずり出し首をはねた。彦次郎は68歳であった。老人に対し、実にむごい殺し方をしている。
 この事件は新撰組が実行したか否かについては、現在においても謎のままだが、事件当初から新撰組の仕業とのうわさが絶えなかったといわれる。
 ことの起こりはこの事件の前年の1863年(文久3年)6月、「壬生浪士組」に対し、大坂町奉行所より、市中を横行する浪士の取締りを依頼され、芹沢鴨近藤勇らが大坂へ出張した。
用が片付いた後、北新地に繰り出す途中(近藤勇はこの北新地には同行していなかったといわれる)、蜆(しじみ)橋に差し掛かったところで、大坂相撲の力士と出会い両者の間で、「道をあけろ、あけない」の押し問答となり、業を煮やした芹沢鴨が鉄扇で力士を殴り倒し、道をあけさせた。吉田屋という店に登楼し、酒を飲んでいると、先ほどの力士達が人数を増やし仕返しに押しかけてきたため、乱闘騒ぎとなり、壬生浪士組は力士を1名死亡させ、3名に重傷を負わせた(もっと数多くの死傷者が出たとの説もある)。これは新撰組が部外の人を切った最初の事件である。
 宿に戻った、芹沢鴨は近藤勇と相談し、近藤勇が西町奉行所に「無礼討ち」として届け出たが、そのとき応対したのが彦次郎で、まるで取調べを受けるような扱いに、近藤勇が腹に据えかね席を立った。
この時の遺恨が彦次郎の暗殺事件に繋がったとするが、1年近くも経っており、これが直接の原因になるとは思われず、色々な憶測を生む事となる。
 1つには、彦次郎が米相場を操作して、私服を肥やしたことに対し、新撰組が探索をすすめ、証拠をつかんだので、誅したという説。これとは全く反対で、新撰組が大坂で強引な金集めをやっているのを、彦次郎が探索しており、このことを近藤たちが知り、証拠隠滅のために暗殺した説などがある。
 当時はまだ、大塩の乱の影響が残っていた所為もあってか、彦次郎の風評は決して芳しいものではなかったが、一方では普段の勤務振りは公私混同を厳しくとがめ、「町商人と懇意に仕らず、役所御用向用談外一切私邸に入れず」をモットーとしたとの話も伝わっており、事件は闇の中のままである。

大坂力士事件の発端となった「蜆橋」の跡
蜆橋 橋の名前は北新地の入り口、御堂筋に面した滋賀銀行のビルの外壁に埋め込まれた形で残されている。
蜆橋の名は近松門左衛門の作品「曽根崎心中」や「心中天網島」などに登場する。
この橋が架かっていたしじみ川は1909年(明治42年)の北の大火の後、焼跡の瓦礫の捨場となり、川としての役割がなくなり、埋め立てが進み、1924年(大正13年)には完全に姿を消した。

近藤勇が事件を届け出た西町奉行所跡と東町奉行所跡
西町奉行所跡 東町奉行所跡
近藤勇が大坂力士との乱闘を届け出た西町奉行所は大阪市中央区本町橋(現マイドームおおさか)にあった。
もとは、中央区大手前1丁目、現大手前合同庁舎のところに東町奉行所と並んであったが、1724年(享保9年)の大火後、当地に移った。
大坂町奉行所は東西両奉行所がおかれ1カ月交代で執務した。大坂力士の事件当時は東町奉行所が月当番で、近藤勇が届けたのは東町奉行所だったとする説もある。これが事実だとすると、彦次郎は力士事件には関係していないことになる。

内山彦次郎が殺害された天神橋のたもと。
天神橋 旧天神橋のプレート 
大阪の人になじみが深いこの橋は、事件の当時は勿論、木造の橋であったが、1888年(明治21年)ドイツ製の鉄橋に架け替えられた。 1888年架橋時のプレートが天神橋のたもと(北区側)と大阪天満宮の境内に保管されている。

内山彦次郎の墓がある寒山寺 寒山寺(箕面市)


彦次郎の墓は箕面市の寒山寺にある。
この寺院は元は大阪市北区兎我野町の「露天神社」の近くにあったが、昭和40年代の後半、新御堂筋の拡張工事に伴い、墓とともに現在地に移転してきたとのことである。


内山彦次郎の墓 内山家一族の墓
内山家一族の墓石群。彦次郎の墓は中央の笠がある墓石の隣にある比較的大きな墓であった。
墓石は風化が進んでおり、表面の剥離が見られる。一部欠けているもの、戒名の「大機院殿之道玄昌居士」は十分に読取れる。
 
 内山彦次郎は大坂町奉行所きっての財政・経済通の能史であったが、大塩平八郎と比較され、その評価が芳しくないのは、本人にとっては全く不本意であったと思われるが、有能な役人によく見られるように、融通が利かない性格であったようだ。
 大塩平八郎が決起するきっかけとなった、時の奉行、跡部山城守が米不足にもかかわらず、徳川慶喜の新将軍就任式のため、大量の米を江戸に回送したのは、彦次郎が上司(奉行)の命令に従って忠実に実行したためであったといわれる。また、平八郎召捕りの指揮をとり、平八郎が自害したときの首検分をしたのも彦次郎であった。
 大塩の乱後の1843年(天保13年)天保の改革を断行した水野忠邦に対し『諸色値段引下方之儀に付奉伺候書付』と題した上申書を提出し、インフレに悩む大坂の物価の引下げに尽力していることなどは彦次郎の有能さを示している。

 史跡-092/TTL-976

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