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史 跡
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新撰組行状記 (3)
藤井藍田惨殺事件 所在地:
万福寺:大阪市天王寺区下寺町1丁目
大宝寺:大阪市天王寺区生玉寺町
玉生堂跡: 大阪市西区南堀江3丁目 高台橋公園
藤井藍田の墓:大阪市天王寺茶臼山町 統国寺
1865年(慶応元年)5月26日早朝 、大坂南堀江に玉生堂という私塾を開いていた藤井藍田方に新撰組大坂屯所の10数名の隊士が乱入し、 藍田を捕縛し引き立てて行った。容疑は藍田が長州の志士と交わり、倒幕の密議を凝らしたということであった。
 藍田は屯所が置かれた万福寺に幽閉された上、数々の拷問を受けた。妻の寿子や息子の卯右衛門が何度も釈放を願い出たが聞き入れられず、16日後に死体となって家族のもとに帰ってきた。
 これが、新撰組による藤井藍田惨殺事件の概要であるが、この事件は、大坂屯所の中心となっていた
谷兄弟*が壬生の近藤勇らから、大坂の検挙数の低いことを指摘され、勤皇といっても影響力の低い藍田を捕縛し、つじつまを合わせたのではないかとの説もあり、新撰組の強引さが目立つ事件である。
 この新撰組の大坂屯所はその前年の1864年(元治元年)5月、内山彦次郎が惨殺されたときには、未だ設けられていなかったが、その年の暮れには既に在ったようで、開設された 時期がはっきりしない。常時20名前後の隊士が詰めていたといわれる。
 藍田を捕縛した谷兄弟は普段この大阪屯所におらず、万太郎が開いていた南堀江の道場で剣術を教えていたらしく、同じ南堀江に住んでいた藤井藍田の動向も十分に察知していたと思われる。
*谷兄弟の経歴
谷三十郎:生年不詳。備中松山藩士。1856年(安政3年)谷家が断絶したため、3兄弟揃って大坂に出て、新撰組に入隊。池田屋事件に出動。 禁門の変後の残党狩り、大坂瓦屋町のぜんざい屋事件への斬りこみなど活躍。
谷万太郎:1835年(天保6年)生まれ。備中松山藩士。直心流剣術と種田流槍流を得意とし、池田屋事件に出動。ぜんざい屋事件での斬りこみ に際し、右腕を負傷。1867年(慶応3年)離隊し、大坂で道場経営に戻る。
1886年(明治19年)大阪で病死。享年52歳。
谷周平  :1848年(嘉永元年)生まれ、谷兄弟の末弟で、池田屋事件に出動。その直前に近藤勇の養子となり、周平を名乗る。備中松山藩主 板倉周防守の御落胤で、そのブランドに近藤勇が惚れこんで養子にしたとも言われるが確証はない。上の兄弟に比し、新撰組における活躍の記録は殆どない。伏見・鳥羽の戦いに参戦し、 1868年(慶応4年)江戸で脱走。明治維新後、大阪府の警察官などをつとめた。1901年(明治34年)神戸で病死。享年54歳。

新撰組大阪屯所が置かれた万福寺
万福寺山門 天王寺区下寺町、松屋町筋に面してある、新撰組の大坂屯所が置かれた万福寺。
万福寺は1970年(昭和45年)の火災で本堂は全焼し、建替えられている。
境内に松尾芭蕉の句碑がある

新撰組の宿舎となった大宝寺 大宝寺山門

新撰組隊士の宿舎となった天王寺区生玉寺町の大宝寺。
万福寺とは背中合わせの位置にある。
白壁に朱色のストライプが入った塀がこのお寺を目だ立たせている。



藤井藍田の玉生堂跡
藤井藍田玉生堂跡 西区南堀江の高台橋公園の一角に 「玉生堂跡」の碑が建っている。

藤井藍田は1816年(文化13年)大坂に生まれる。幼名平三郎、名は尚徳。
家業の呉服と藍を営む「綿屋」を息子の卯右衛門に譲り、1857年(安政4年)に南堀江高台橋南詰東入北側に「玉生堂」を開き、漢・儒学の教授を始めた。この塾に、勤王の志士達が出入りし、彼らのアジトとなり、幕府からは危険分子として睨まれていた。

藤井藍田夫妻の墓がある統国寺 藤井藍田の墓
天王寺区 統国寺に建てられている藤井藍田夫妻の墓。
右側「藍田居士之墓」が藍田の墓。左側の「清涼岩崎氏之墓」とあるのは夫人の墓。

詳細は「藤井藍田の墓」をご覧乞う。



 史跡-094/TTL-384

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