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所在地:枚方市渚元町
最寄駅:京阪本線「御殿山」下車、駅前の斜めの道を北東に
約500M、突き当りを左へ約100M、左側 |
渚の院は9世紀、惟喬親王が交野遊猟に用いた別荘とされている場所である。
惟喬親王は文徳天皇(在位:850〜58年)の第1皇子で、藤原氏を外戚とする惟仁親王(後の清和天皇)との皇位争いに敗れ、その憂さを晴らすため、在原業平らとしばしば渚の院に来ており、『伊勢物語』82段には「いま狩する交野の渚の家、その院の桜ことおもしろし。その木のもとにおりゐて、枝を折りてかざしにさして、上中下みな歌よみけり」と記されている。
紀貫之が淀川をさかのぼり、京に向かう途中、渚の院のかっての有様をしのんで『土佐日記』2月9日条に「かくてふねひきのぼるに、なぎさの院といふところをみつゝゆく。その院むかしをおもひやりてみればおもしろかりけるところなり。しりへなるをかには、まつのきどもあり。なかのにはには、むめのはなさけり」と記している。
院は後に観音寺と呼ばれる寺院が建立されたが、明治初年の神仏分離で廃寺となっている。現在その跡地には鐘楼と鐘が残されており、枚方市の文化財の指定を受けている。
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[参考資料] 『渚の院址:現地解説板』 枚方市教育委員会
『日本歴史地名体系』(大阪府の地名編) 平凡社 |
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渚の院跡は金網のフェンスで囲われ、出入り口には錠が掛けられている。
鍵は隣の保育所で保管されており、申し出れば借りることが出来る。 |
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この「渚院」碑は1661年(寛文元年)領主永井伊賀守の家臣杉井吉通が建立した。ご覧の通りかなり痛んでいる。(碑文には家臣ではなく家隷としている) |
この碑は元の石碑の痛みが激しいので、2002年(平成14年)に枚方市、枚方市教育委員会および渚院を考える会により復刻された。 |
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観音寺の鐘楼と鐘が残る。鐘には「寛政八年(1796年)四月 観音寺」の銘がある。
この鐘は代々河内の鋳物師の家系であった田中(藤原)家信により鋳造された。 |
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『古今集』にある在原業平の歌。
渚の院にて桜を見てよめる 『世の中に たえて桜のなかりせば 春の心は のどけからまし』
この歌は渚の院に同行した業平が惟喬親王の心境を詠んだとも言われている。 |
この石碑は「牧野村紀徳碑」とあり、「渚の院」とは関係が無いようだ。
1895年(明治28年)の建立で、旧牧野村で色々と功績の合った人たちを称えている。 |