<日露戦争の原因
●日露戦争の経過
1902年、日本はイギリスと日英同盟を結ぶことができます。この同盟は、日露戦争に向かう日本にとっては大きなプラスでありました。その内容の一部に「どちらかの国が2つ以上の国を相手に戦争を始めた場合、もう一方の国は同盟国に対して味方となり戦争に参戦する」という約束が書かれています。
つまり、この条約により、日本がロシアと戦争を始めた場合、仮にロシア側に味方する国が出てきた場合でも日本は単独で2カ国を相手にしなくて済むということです。その場合は、イギリスが日本に味方してくれますから・・・。
1904年、日本は遂にロシアに宣戦布告をします!日露戦争開戦です。
国力では日本の10倍もの差があるロシア。この大国に日本が勝てるのか?先に結果を言ってしまえば勝ちます!でもどうやって?
まず、日本側の作戦としては、お金もないし短期決戦、そして早期の段階でロシアに圧勝し講和を結んでしまおうという作戦です。
そして、伊藤博文(いとう ひろぶみ)は、セオドア・ローズヴェルト大統領と親交のある金子堅太郎(かねこ けんたろう)をアメリカに渡らせアメリカの世論が日本よりになるよう工作するよう依頼します。
そして、日本の連合艦隊を旅順に向かわせました。旅順(りょじゅん・遼東半島の一部)は、三国干渉によって日本が清に返した土地ですが、事実上ロシアの軍事基地となっていました。
まず、戦艦にて旅順を攻撃するが上手くいかない。そこで、陸上からの攻撃に切り替え指揮官を乃木稀典(のぎ まれすけ)とし作戦を変更します。乃木は、日清戦争の時、あっけなく旅順を攻略してしまった経験を持つ。今度も・・・。と思いきやロシアによってコンクリート製の強固な要塞と化した旅順はビクともしない!結果、日本に多くの戦死者を出すことになります。
そこで、今度は203高地という山を攻略せよ!と本部は乃木に提案。この小さな山からなら旅順港を砲撃できそうです。そして、乃木は「陸軍の頭脳」というわれる児玉源太郎(こだま けんたろう)の力を借り、なんとか203高地を占領。作戦通り、頂上からの砲撃によりロシア艦隊を殲滅します。しかし、この旅順攻略には日本軍は6万人もの戦死者を出すことになりました。
なんとか、旅順を攻略は出来たものの、ロシアにはまだ、最強艦隊といわれるバルチック艦隊があります。1904年、10月15日。ついに、そのバルチック艦隊が動き出しました。
しかし、これにはイギリスがナイスサポート!各国に圧力をかけ、バルチック艦隊の入港を拒んだり、石炭の積み込みを不自由にさせたりして航行を邪魔します。バルチック艦隊が日本海にたどり着くまでには約7ヶ月もかかりました。疲れきった状態で日本海にたどり着いた最強艦隊。彼らを待ち構えていたのが東郷平八郎(とうごう へいはちろう)が率いる連合艦隊です。7ヶ月もの間、こちらは砲撃の精度を猛特訓していました。
精度の上がった砲撃と後に世界三大提督のひとりに挙げられることになる東郷平八郎、また彼の右腕、戦略家の秋山真之(あきやま よしふる)らの周到な作戦により、世界最強艦隊を相手に一方的な勝利を見せ付けます。
日本軍の活躍により軍事的な勝利を得た日本でしたが、当時国家予算が2億5千万円の状態で無理くり用意した18億円。そのうち、第一ラウンドで15億円も使ってしまった・・・。もう、戦争続けるの無理なんですけど・・・。
そう、ここでアメリカ大統領セオドア・ローズヴェルトにあらかじめ仲介をお願いしていたのが役にたちます。日本は当初の作戦通り、初戦で圧勝し、早い段階で講和条約を結んでしまおうという作戦が見事に成功したのです。このアメリカ大統領の仲介により結ばれた条約がポーツマス条約です。
●日露戦争のその後
戦争では、ある程度、思い描いた作戦通りとなりましたが、この後が難航します。ロシアは負けを認めないのです。といっても日本もこれ以上、戦えない。そこで、日本側が最大限譲って、「お金はいらないよ。その代わり、日本の韓国における優越権や南満州鉄道の一部、あと南樺太をくれ!」と要求。何とか、この妥協案で交渉は成立します。(ポーツマス条約)
しかし、怒ったのは日本の国民です。「おい、おい賠償金なしかよ。政府弱腰すぎない?」と講和条約に納得できない国民は全国で暴徒化していくことになるのです。(日比谷焼き討ち事件)
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旅順での戦い |
乃木稀典
休職中であった乃木は日露戦争開戦と共に呼び戻される。旅順を陸上から制圧し、ロシア艦隊を撃破する作戦であったが強固な要塞に苦戦。203高地を占領する作戦に変更後も死者を続出させることになる。 |
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児玉源太郎
乃木の友人である児玉は203高地作戦にて指揮権を乃木から譲り受け、たった1日で乃木が苦戦する203高地を制す。それにより、旅順の要塞を攻略。 |
最強艦隊バルチックとの戦い |
東郷平八郎
バルチック艦隊は日本海に到着するまでに7ヶ月もの期間を要した。その間、東郷は砲撃の訓練を連日連夜行う。
対馬海峡にて対峙すると訓練の成果がものをいい、見事圧勝する。 |
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秋山真之
東郷は作戦立案を秋山に任せた。それが「七段構えの戦法」。しかし、この戦法は4段までしか実行せぬまま、なんとバルティックに勝利することになる。 |