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乃木希典の生涯

 
  乃木希典(のぎまれすけ)は、1849年に生まれ16歳で吉田松陰(よしだ しょういん)心酔し、その師匠である玉木の玉木文之進(たまきぶんのしん)門下に入ります。



 17歳で長府藩の報国隊に参加し翌年には第2次長州討伐で幕府軍と戦いました。

 29歳で西南戦争に参加。38歳でドイツへ留学。そして、46歳の時に日清戦争に陸軍少将として参加し、旅順(りょじゅん)攻略に成功します。この旅順という場所が乃木希典(のぎまれすけ)にとっては、切っても切り離せない場所となってきます。

 日露戦争開戦前、病気を理由に休職していた乃木希典(のぎまれすけ)でありましたが、長州藩の山県有朋(やまがたありとも)と参謀次長の児玉源太郎(こだまげんたろう)により呼び戻され、乃木希典(のぎまれすけ)は、陸軍大将として旅順攻略の為、遼東半島へと向かいます。
 

●遼東半島

日清戦争にて日本に割譲されたが三国干渉により領有を断念。その後、この遼東半島の一部(旅順・大連)をロシアが租借(一定期間借り入れ)事実上、ロシアの軍事基地となっていく。

日露戦争開戦後は、この遼東半島の旅順にて日本とロシアが激しく争うことになる。


 日清戦争時は、あっけなく攻略してみせた旅順。今回も・・・。という期待を背負って乃木希典(のぎまれすけ)は旅順へと向かいましたが、そこはロシアの手によってコンクリート製の強固な要塞へと造りかえられていました。

 日清戦争時の正面突破の戦術を試みるも、ロシア軍の反撃に合い、乃木希典(のぎまれすけ)の率いた軍は約6万人の死傷者を出すことになるのです。この旅順攻撃で乃木希典は2人の息子も亡くしています。結局、この旅順攻略は、乃木の友人である児玉源太郎に指揮権を渡し、児玉は見事に旅順を攻略します。

 その後、乃木希典(のぎまれすけ)は、59歳で学習院院長に就任。この時には後の昭和天皇を指導しています。

 そして、1912年。64歳の時、明治天皇大葬の日に妻 静子と共に自害し生涯を終えました。享年64歳でした。