征韓論の真実
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征韓論とは、明治の初めに西郷隆盛、板垣退助、工藤新平らによって唱えられた「武力によって朝鮮に開国を迫ろうではないか!」という考えです。
大久保利通や岩倉具視らはこの考えに反対。後に、この対立が明治六年政変に発展し、不平士族の反乱が頻発、そして最終的には西郷をかついだ西南戦争へとなっていきます。
まぁ、教科書でならったのは、こんなところだと思います。しかし、実は当時の日本は朝鮮を早く近代化させたいという狙いがあったのです。そうしないと欧米列強の餌食にされてしまい、日本が孤立されてしまうことを恐れていたんですね。
では、この征韓論と日本の狙いについてちょっと見ていきましょう。
時代は、明治維新直後。日本は李氏朝鮮に対して何度も正式な使者を派遣しますが、朝鮮側は拒絶します。日本からの文章に『皇』や『勅』という文字が入っていたことに憤慨しました。「これは、中国の皇帝だけが使うことのできる文字であって日本なんぞが使っていいわけないだろっ!」って感じ・・・。当時の朝鮮は中国(清国)の属下にありましたらか、中華秩序の中にすら入っていないような日本ごときが何を生意気なことを!というわけです。
ですが、日本にしてみたら日清修好条規という平等条約を中国(清国)と結んでいるんでいるんで別にいいじゃん!とこちらも折れるようすはありません・・・。
朝鮮側の頑なな態度に日本で起こったのが征韓論です。西郷隆盛は「自分が朝鮮に行ってくる!それでもし殺されたとしても、むしろ攻める口実になるではないか!」とまでいいますが、大久保利通や岩倉具視は反対。
彼らは、アメリカやヨーロッパの国々を見て回ってきたので海外事情を知っていたんです。ですから、今、李氏朝鮮と戦争なんて起こしたら欧米は黙っていないし、今は国内の政治制度を充実させるべきときと考えたんですね。
ただし、勘違いしやすいのですが、征韓論にて反対派の人たちも別に朝鮮を攻めないとは言っていないんです。ただ、時期と方法が食い違い対立していたんですね。
結局、李氏朝鮮と日本は、1875年に日本海軍の測量船の雲揚号が朝鮮の江華島付近で砲撃にあったことをきっかけに日本は報復に出て戦争状態になります。
その翌年、日本は全文十二条からなる日鮮修好条規を朝鮮と結びます。
結局は、武力で朝鮮を開国させたわけですね。
この日鮮修好条規は朝鮮にとって不平等な条約でした。よく言われるのが、日本は欧米から不平等条約を結ばされていたのに、今度は朝鮮に対して不平等条約って・・・。なんか、酷くない?という内容。
しかし、当時の情勢を考えると当然ともいえるんですね。
だって、清国との間ですでに日清修好条規という平等条約を結んでしまっていますので、清国に従属していた朝鮮と日本が対等の条約を結ぶとなると清国に対して失礼になってしまいます。当時の国際的な秩序から考えると不平等条約というのも仕方ないんですね。
当時の日本の狙いとしては、朝鮮や中国を近代化させて欧米列強の手から免れた状態になってから、大陸と半島へと関与していくという考えであったといわれています。
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