|
所在地:大阪市天王寺区上本町5丁目 妙中寺
最寄駅:近鉄、地下鉄千日前線「上本町」下車、上町筋を北へ、
|
岡田米山人は江戸後期の大坂を代表する文人画家で、家業の米穀商の経営に精を出す一方、学問を修め、独自の画境を開拓した。
1744年(延享元年)の生まれ、通称米屋彦兵衛。名は国、字は士彦、号の米山人、米翁は米穀商であったところから取っている。その画風は「筆致奔放、構図大胆、
気骨凛々、賦彩妙手、真率磊落」と評せられた。特に最晩年の2年間に傑作が多い。1820年(文政3年)77歳で没した。
藤堂藩大坂蔵屋敷に儒者として仕えており、邸内の彼の部屋を「正帆」と名付け、知友の浦上玉堂を始め木村蒹葭堂、田能村竹田、篠崎小竹、 頼山陽 などと交友した。
岡田半江は米山人の子で、1782年(天明2年)生まれ、通称宇左衛門、父の没後は彦兵衛を襲名。名は粛、字は子羽、号は半江、子米、無声、寒山など。
父に代わり家業の米穀商に精励、よく繁盛させた。画を父に習い、詩文にも長じていた。藤堂藩大坂蔵屋敷に仕えた。天保3年ごろ職を辞し、子の寸庵(彼も画人として活躍)に米穀商の家督を譲り天満橋北に隠居所を構えたが、父米山人が残した膨大な量の書画や書籍が1837年(天保8年)大塩の乱の煽りで、灰燼に帰している。
半江が本格的に絵筆を振るい始めたのはこの事件以降のことである。居を住吉に移し、父の知友であった 篠崎小竹、田能村竹田など多くの文人と親交を結んだ。1782年(弘化3年)65歳で没した。
尚、米山人父子の墓は、はじめ東高津の直指庵、後に餌差町良専庵に移り、更に現在の上本町妙中寺に移されている。
|
|
[参考資料] 『大阪人物辞典』 三善貞司編 清文堂出版社 |
|
|
玄関の傍らに「参玄山妙中禅寺」の石碑がなければお寺には見えない妙中寺。 |
玄関の植込みの中に「岡田米山人・岡田半江墓所」の石碑が建てられている。 |
岡田米山人(左側)と岡田半江(右側)の墓が位牌型で並んで建てられている。
|
|
|
|
岡田米山人夫婦の墓。
墓碑には「和恵岡田家君、智応二老室君 墓」とある。 |
岡田半江の墓。墓碑は「半江岡田翁之墓」。 |