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所在地:大阪市中央区淡路町4丁目
最寄駅:地下鉄御堂筋線「本町」下車、北へ
御霊神社旧蹟:大阪市西区靱本町2丁目 「靱公園内」 |
当社は圓江(つぶらえ:現在の靱)にあった圓神祠(つぶらしんし)が創起で、850年(嘉祥3年)の「文徳実録」に八十嶋祭の祭場が圓江で行われたとあり、800年代後半の創建とされる。
文禄三年(1594年)に、石州津和野藩主亀井候が邸宅を割いて寄進し、圓江から現在地の北船場に移され、寛文年中に御霊神社と改称された。頂いた資料によると、商業金融の中心地の鎮守として商家の崇敬はもとより、山片蟠桃、緒方洪庵、福沢諭吉を始め、懐徳堂や適塾の塾生もよく参拝したとのことである。
1926年(大正15年)に境内の浄瑠璃文楽座が出火し、本殿に類焼。1930年(昭和5年)に再建されたが、1945年(昭和20年)の空襲により、全て炎上した。現在の社殿は1957年(昭和32年の再興。
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[参考資料] 『御霊さん』 御霊神社パンフレット |
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御霊神社正面鳥居。
殺風景なオフィス街の中にあって、神社の木々の緑に朱塗りの鳥居が映える。 |
神社の南側にあるビルの入口に鳥居が建っている。
このビルは神社とは関係がなさそうであるが、土地の所有権の関係でこうなったのであろうか。 |
御霊神社拝殿。
拝殿の前に注連柱が4本、注連縄が張ってあり、近寄り難い雰囲気がある。
祭神は天照大神荒魂、津布良彦神、津布良媛神
応神天皇、源正霊神の5柱を祀る。
この内、津布良彦神、津布良媛神は旧攝津国津村郷の産土神であり、源正霊神(鎌倉権五郎景政)は亀井候が邸宅内に祀っていたのを合祀した。
鎌倉権五郎景政は平安後期、源義家に使えた武将で
「後3年の役」で活躍した。
全国にある御霊神社の多くで、祭神として祀られており、御霊神社の成立ちに大いに関係しているようである。 |
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左側は北浜船場ライオンクラブ建てた「文楽座跡」碑。
右側は「大坂観音霊場33ヶ所めぐり」の33番霊場碑 |
境内に1884年(明治17年)から人形浄瑠璃「御霊文楽座」があった。
文楽200年の歴史の中でも、もっとも華やかな時代であったといわれ、大阪人の社交や商談の場として大いに繁盛したが、1926年(大正15年)に出火で焼失した。 |
御霊神社旧蹟 |
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西区靱本町の靱公園内にある「御霊神社旧蹟碑」 |
御霊神社旧蹟は現在「楠永神社」となっている |
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[2004年9月26日参拝] |
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