江戸幕府が250年続いた理由
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江戸幕府の始まりといえば、徳川家康が征夷大将軍に任命された1603年と思われますが、実際に全国支配が始まったのは1615年の大坂夏の陣で豊臣氏を滅ぼしてから本格的なスタートが切られています。
1603年に形式上は江戸幕府が成立していますが、まだ豊臣氏が西国を中心に65万石ほどを保有する有力大名だったんですね。それを滅ぼすのが1615年です。
さて、その後、江戸幕府は1867年の大政奉還によって天皇に政権を返すまで続くことになります(江戸幕府の最後については諸説ありますが・・・)。
およそ250年もの間、江戸幕府が長期政権を保てた理由って何なんでしょうか?
3代目で潰れなかった江戸幕府
会社でもそうですが、3代目になって潰れたなんて話はよく聞きます。
創業者がイケイケでやってきた会社も3代目が継ぐ頃になると時代も変わり、それまでの経営では時流に合わなくなり業績が悪化してしまう・・・。といったケースが多いようです。
その点、江戸幕府の3代目はカリスマ徳川家光!
彼は、参勤交代、慶安のお触書、鎖国の完成など幕府が続いていく基礎となる政策を次々に実施していきます。
江戸幕府では3代目の家光までの間に幕府基盤を確立していったんですね。3代目が家光であり、幕府の基盤をしっかりしたものにしたことは江戸幕府が長く続く礎となったことは間違いないでしょう。
しかし、幕府の転換期は4代目の家綱の時代にやってきます。
それまでは、敵対する者は排除することもいとわない武断的な手法で治めてきた江戸幕府。実際に関ケ原の戦い以降の大名の改易は105にものぼります。
ですが、それによって主君を失った牢人が増加。家光が亡くなり11歳の家綱が将軍になると江戸の牢人たちを集めて由井正雪が幕府の転覆を企てたりもします。
そこで幕府はそれまでの武断政治から文治政治へと転換が図られます。
文治政治の時代へ
文治政治というのは、古代中国の儒家が唱えたもので、主君が国家の制度として礼楽を確立させれば社会に秩序と和がもたらされるという思想。
武家諸法度は将軍がかわるたびに出されますが、5代目綱吉が1683年に発した武家諸法度天和令では、第一条が「文武弓馬の道、専ら相たしなむべきこと」というものから「文武忠考を励まし、礼儀を正すべきこと」とに書き換えられました。
それまでは、大名は有事にいつでも軍事力を動員できるように弓馬の道に励みなさいとしていたのですが、忠義と孝行、礼儀を重んじなさいと変えたわけです。
「武」でなく「文」で治める時代に変わったわけですね。
さらに家人が主君の後を追って死ぬことを禁止することも書き加えられています。
主君のために命を捧げる行為はもはや時代遅れ。主君亡き後はしっかりと跡継ぎに仕えなさいってことですね。これによって、個の主君と家人という関係から代々家臣の家は、主君の家に仕えなさいと家と家との関係になっていきます。これにより、家格が固定され下克上はなくなります。
さらに末期養子といって、大名が跡継ぎなしで死の間際に迫られた時に慌てて養子をとる行為も許されることと書き加えられます。
相続人はあらかじめ決めておき、幕府の許可を得るのが当然の務めであるのに慌てて養子をもらうなどもってのほかと禁止されていたんですが、この末期養子の禁の違反で改易される大名が多く、牢人の増加の要因となっていたんで牢人を減らすためにも認めることとしたんですね。
まぁ、殉死の禁止と末期養子の禁はそれ以前にも解禁となっていたんですが、改めて1683年の武家諸法度では条文として加えられたんです。
こうして、江戸幕府は時代の流れに柔軟に対応し、250年以上も続く長期政権を実現させていくことになった訳です。
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