歴史年代ゴロ合わせ暗記  

歴史年代ゴロ合わせ暗記尊王攘夷運動と大政奉還




 

尊王攘夷運動と大政奉還

 
 井伊直弼(いい なおすけ)が朝廷に許可も得ずに日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)を結び貿易が始まってからは、国内では生糸や茶が極端な品不足になっていきました。これにより江戸では物価が高騰。これらにより幕府への不満が高まっていきます。

 そして、人々の間では、
尊王攘夷(そんのうじょうい)という考えがもてはやされるようになっていきます。尊王とは、開国してしまった幕府に不満を持ち「幕府の政治じゃダメだ。やはり天皇でなくては!」という考え。また「開国してしまったからいけないんだ!外国を日本から追い出そう!」というのが攘夷という考えです。このふたつの考えが結びつき、尊王攘夷運動になっていきます。

 この尊王攘夷に対して幕府では、
公武合体論(こうぶがったいろん)という考えが生まれてきます。「公」は天皇、「武」は幕府。幕府は、日米修交通商条約安政の大獄で関係を悪化させていた朝廷と結びつくことで、反幕府勢力を押さえ、幕藩体制を維持しようと考えたのです。

 でも、公武合体論より尊王論のほうが朝廷にしてみたらいいでしょ?と考えがちですが実はそうでもなかったようです。当時の天皇、孝明天皇は攘夷、つまり外国を日本から追い出すというのが第一の考えでした。その為には、幕府の力を借りるほかない。つまり、公武合体論派だった訳です。

 ですから朝廷は攘夷(外国を追い出すこと)を条件に1862年 孝明天皇の妹である和宮と第14代将軍 家茂の結婚を認めます。

 さぁ、これで攘夷がいよいよ実現!日本から外国を追い出すか?と思いきや、そう簡単にはいきません。国内では、尊王攘夷派と公武合体派が入り乱れ、さらには、次々に起きる事件により逆に外国の強さを見せ付けられることとなっていくのです。


 
○生麦事件と薩英戦争(なまむぎじけんとさつえいせんそう)

 薩摩藩の藩主の父親、島津久光は、朝廷へ意見を申し立て幕府改革案を幕府に受け入れさせました。大きな仕事を終え帰宅の途中、神奈川の生麦村というところで彼の行列はイギリス人の商人達と出くわすのです。そのイギリス人たちは大名行列と出くわした時の礼儀をまったく知らず馬から下りようともしない。怒った薩摩藩士たちは無礼であるとイギリス人たちを殺傷してしまう。これが、
生麦事件です。

 イギリスは、自国の仲間を殺されて当然黙ってはいません。賠償金の請求を請求し、幕府は応じるものの、薩摩藩はかなりの強気!犯人さえ出そうとしません。

 そこでイギリスは、なんと艦隊を鹿児島湾に派遣して街を砲撃。薩摩藩と戦争状態となってしまうのです。1863年の出来事でこれを
薩英戦争といいます。薩摩藩(鹿児島)VSイギリス。結果は見えていますね。(とはいえ、イギリス側も多数の死者を出すなどかなりの痛手を負う)

 結局は薩摩がお金を支払い、頭を下げるかたちで終結します。(ちなみにこの後、薩摩は軍艦購入などイギリスと親しく付き合うようになるから分からないものです。)

 ○下関事件(しものせきじけん)
 

 薩英戦争と同じ年。長州藩もすごいことをやらかします。朝廷を動かし、幕府に攘夷(外国を追い出す)を1863年の5月をもって実行することを約束させるのですが、長州藩は5月早々。単独で下関沖を通る外国船をアメリカ、フランス、オランダと次々に砲撃!これに怒った外国勢はアメリカ、イギリス、フランス、オランダと4カ国連合で、この砲台を占拠する。薩摩に続き、長州藩(山口県)はなんと1つの県で4カ国を相手にすることになってしまうのです!・・・が、もちろんそんなの無理。砲台の撤去と外国船の受け入れを約束させられ和睦となります。

 えっ?長州藩が酷い目にあっている時に朝廷や幕府は何をしていたかって?朝廷と幕府にも攘夷を約束させたはずでは?

 実は、長州藩が外国船に砲撃したのが1863年の5月ですが4カ国が攻めてきたのは1864年の8月。この1年と僅かな間に長州藩はえらいことになっていたのです。

 まず、その年の8月に
8月18日の政変というのが起こります。長州藩っていうのはバリバリの攘夷派。ですから、攘夷を約束しながらも実行に移さない幕府にイライラ・・・。単独で外国船を砲撃しちゃうくらいなんです。このように急進的な長州藩の行動や朝廷での影響力の拡大に孝明天皇も長州藩には頭を悩ませていたんです。そして、遂に長州藩ら攘夷派は京都から追い出されちゃうんですね。

 また、1864年の7月には
禁門の変きんもんのへん)という事件で長州藩は完全に朝廷の敵となってしまいます。これは、京都・朝廷に長州藩が乗り込み「確かにやりすぎたかも知れないけど許してくださいよ〜」と軍を率いて要求をするんですが会津や薩摩藩によって長州藩が敗北する出来事です。

 さらには、
第一次長州征伐といって長州藩は幕府からの進軍すら受けることになるのです(実際は、攻撃される前に謝っちゃいます)。

 そして、1864年の8月に4カ国連合が攻めてくるのですね。そりゃ無理です。朝廷と幕府に見捨てられ、4カ国相手は絶対無理ですね。

 
○薩長同盟(さっちょうどうめい)

 薩摩藩や長州藩が外国勢に実力の差を見せ付けられ、もう攘夷(外国を日本から追い出す)なんて無理じゃない?それよりも、幕府を倒して新しい日本を切り開いていったほうがいいよ。という考えを持った人々が現れてきます。そう、あの土佐藩出身の
坂本竜馬(さかもと りょうま)がその中のひとりです。

 坂本竜馬は、その為には薩摩と長州が協力し合うことが必要だと考えました。実は、この薩摩と長州を結びつけるのは至難の業!両藩とも攘夷という考えでは一致していたけれども、そのやり方がまるで違う。薩摩が公武合体派で幕府よりだったのに対して長州はバリバリの尊王攘夷派でした。

 ですから、先にも述べたように長州藩が外国船に砲撃を開始してから、8月18日の政変、禁門の変、第一次長州討伐と続きましたが、実は、これらに一枚噛んでいたのが薩摩藩。

 8月18日の政変では、薩摩藩は会津藩と協力し長州藩を京都から追い出しているし、禁門の変で再起をかけた長州藩でしたが、それも薩摩と会津が邪魔をしています。第一次長州討伐という幕府による進軍を長州が受けたときも、薩摩は幕府に強力している。普通に考えれば、このふたつの藩が同盟を結ぶなんて到底無理だった訳なのです。

 しかしながら、両藩とも外国との戦争を経験し攘夷なんて無理と悟っていた頃。しかも、薩摩藩の
西郷隆盛(さいごう たかもり)は第一次長州征伐の時に勝海舟(かつ かいしゅう)と話し合い、公武合体の限界と新政権の構想を聞かせれ、一時は長州の撲滅を決意していたのですが、勝海舟の説得により長州の謝罪降伏に納得し、長州藩の温存を図っています。

 とはいえ、犬猿の仲の薩摩、長州を結びつけるにはお互いの面子もあり苦労したことでしょう。土佐藩出身の坂本竜馬と中岡新太郎(なかおか しんたろう)は必死に薩摩藩の西郷隆盛(さいごう たかもり)と長州藩の木戸孝允(きど たかよし・この時は桂小五郎)ら説得し、1866年ついに幕府を倒すために協力し合うよう誓い合わせるのでした。


 ○大政奉還(たいせいほうかん)

 1865年、長州藩が武器の密輸をしていることを知った幕府は1866年、長州藩へと第二次長州征伐の軍を向けます。しかし、実は、この半年ほど前に薩長同盟が結ばれており、期待していた薩摩藩は動かない!しかも、長州藩は何だか最新鋭の銃も持っている(その頃、幕府軍はまだ火縄銃)。さらには、将軍
徳川家茂(いえもち)が急死してしまう。結局幕府軍は引き下がることとなるのですが、もはや、たかだか長州一国にすら勝てない幕府軍・・・。しかも、この後、公武一体派だった孝明天皇が急死。(これには、薩長による暗殺説もある。せっかく幕府を倒しても肝心要の天皇が幕府よりではたまったものではないので・・・。)

 そうした中、将軍家茂に変わり、
徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)が15代将軍となりますが、その慶喜将軍は1867年、土佐藩主 山内容堂(やまうち ようどう)の意見を受け入れ(坂本竜馬の案だという説もある)政権を天皇に返す、大政奉還を決めるのでした。 


 

(坂本竜馬(左)と中岡新太郎(右)像・京都府 円山公園)