フランスの絶対王政
|
フランスの絶対王政の形成は、早く16世紀前半のフランソワ1世やアンリ2世の時代から見ることができます。
官僚制の整備による中央集権化、貴族勢力の抑圧など。しかし、16世紀末のおよそ30年にわたるユグノー戦争という宗教的内乱によって王権の力は弱まり、貴族も力を回復、絶対王政は一時中断となってしまいます。
では、フランスの絶対王政について、この辺りから見ていくことにしましょう。
フランスVSイギリスの百年戦争。この戦争は、イギリス優勢の中、進められてきましたが最終的にはジャンヌ・ダルクらの活躍によってフランス本土からほぼイギリス軍を追い払うことに成功しました。そして、その後登場したのがフランソワ1世。このフランソワ1世といえば、イタリア戦争でスペインや神聖ローマ帝国で戦ったことは、以前お話しましたね。
このフランソワ1世の後を継いだのが息子のアンリ2世でした。このアンリ2世は、祝宴での槍試合にて目を射抜かれて、その後亡くなってしまいます。そして、その彼の後を継ぐのがフランソワ2世。フランソワ1世だの2世だの出てきてややこしいですね。ここは2世ですよ。しかし、そのフランソワ2世は体が弱く即位後1年で亡くなってしまいます。次いで王位についたのはシャルル9世。10歳で即位しますが、彼もまた病弱でした。
病弱だらけで、誰が国をまとめるんじゃい!って感じですよね。そう、フランソワ2世、シャルル9世の時代に政治の実権を握っていたのはアンリ2世の妻、カトリーヌ・ド・メディシスです。
そんな時に起きたのがユグノー戦争でした。カトリックとユグノーと呼ばれたカルヴァン派の宗教的対立から始まった争いは1562年には内乱に発展。最初は、宗教対立だったんですけどねぇ。あれ?今なら邪魔な貴族勢力を追い払えるんじゃない?みたいな感じでカトリーヌが加わってみたり、おお、なんかフランス内乱なってるぞ。ってことでスペインやイギリスがそれぞれの勢力に力を貸してみたり・・・。
結局、この状況をどうにかしようとカトリーヌの娘、つまりはシャルル9世の妹ですね。このマルグリートという人が1570年に新教徒の首領、ナバラ国というイベリア半島に存在したフランス人王朝のアンリと結婚することになりました。
アンリの結婚を祝福する為に多くの新教徒が集まったんですけど、ここにカトリック側が襲撃をかけます。1572年のサンバルテルミの虐殺という事件。これで多くの新教徒が殺害され有力貴族なども犠牲となりました。
その後、2年ほどでシャルル9世がこの世を去ると代わって即位したのがアンリ3世でした。彼の時代にカトリーヌは亡くなり、アンリ3世が全権を握ることとなります。しかし、この人も宗教対立で暗殺されていまうんです。アンリ3世は本来カトリックの人だったんですけど、カトリーヌ同様に国王よりも力を持っていた人物がいたんです。ギーズ公という人。この人を暗殺してしまうんですが、ギーズはカトリック勢力では、人気があった人でそのためカトリック側に暗殺されてしまうことになります。
さて、このアンリ3世の後に即位したのがアンリ4世。ここでフランスの絶対王政は最盛期を迎えることになります。
アンリ4世
アンリ4世が即位したのは1589年。この人はちょっと前に登場していますよ。誰でしょう?サンバルテルミの虐殺で出てきたアンリです。ナバラ国の王、アンリです。ナント、夫婦ともに逃げ延びていたんですねぇ。そして、アンリ4世として即位したんです。奥さんがシャルル9世の妹ですからね。国王の血を引いてるってことです。
ですけど、アンリ自身はブルボン家の人。ですから、ここからはブルボン朝の始まりということになります。
このアンリ4世は、驚くことに宗教対立を収める為、カトリックに改宗します。自分を殺そうとしたカトリック勢力に改宗しちゃうんだからスゴイ。そして、1598年にナントの勅令(ナントといのは、ロワール川付近の都市)を発布します。これは、新教徒ユグノーにもカトリックとほぼ同じぐらいの権利を与えるっていうことです。これによって、ユグノーもカトリックも納得。ユグノー戦争はこれによって終結することになるんです。
このアンリ4世の時代にフランスは経済的にも政治的にも復興し絶対王政の基礎が確立されることになります。
しかし、このアンリ4世も暗殺されてしまうことになるんです。犯人はカトリック教徒。まぁ、カトリック側からすれば、アンリは改宗したけれども、ナントの勅令でユグノーに権利を与えてますからね。ちょっと、気に入らないって人もいたんでしょうね。
ルイ13世
アンリの王位を継ぐのが彼の息子であるルイ13世。ですが、王位を継いだ時の年齢は8歳。そんなちびっ子で政治を行えるはずもないので母のマリー・ド・メディシスが摂政となって政治を行います。ちょっとややこしいんですけど、アンリ4世のサンバルテルミの虐殺の時の奥さんはマルグリートでしたね。その奥さんとは離婚してマリー・ド・メディシスと結婚していたんです。
しかし、彼女は熱心なカトリック教徒だったので新教徒や権力の回復を狙う貴族らの反抗にあうことになります。
やがて、ルイ13世も政治を行うようになっていきますが、彼は政治よりも音楽や狩りを好んだので国内の動揺は絶えることがありませんでした。そこで登場したのが貴族出身のリシュリュー。1624年に宰相として登用されると彼は、死ぬまで王権の強化、絶対王政の確立に専念します。
リシュリュー
では、リシュリューがどのような政治を行っていったかを見ていきますね。@まず、ナントの勅令にて色々な特権を与えられていたユグノーに対して宗教の自由は認めますが政治的な介入は許さないことにしました。Aさらにリシュリューの政策に不満を漏らす貴族に対しては厳しく抑圧し、王権の拡大を邪魔していた貴族勢力をしだいに削減していきます。Bまた、貴族出身の地方長官とは別に中産市民層出身の官史を知事に登用して全国に派遣。地方の司法、警察、財政の観察に当たらせ中央集権的な官僚機構を整備します。C課税協賛権をもっていた三部会(聖職者、貴族、平民からなる身分制議会)を1614年以降は召集せず有名無実化します。D別のリンクで説明しますが、三十年戦争に対して1635年から積極的に介入。国際的地位確立に努めました。
しかし、リシュリューのようにがんばりすぎるとストレスもすんごく溜まるんでしょうね。潰瘍などのストレス性疾患が彼の体を蝕んでいきます。やがて、死期を悟ったリシュリューは、後継者にマザランを指名すると息を引き取りました。
マザラン
このリシュリューが亡くなって半年もせずにルイ13世も後を追うようにして、この世を去ると代わって王位につくのがルイ14世。ですが、彼もまた即位したのが4歳・・・。4歳じゃ、政治出来ませんね。ということで、リシュリューが後継者に指名したマザランが宰相として活躍します。
マザランは、対外政策では、リシュリューから持ち越しとなっていた三十年戦争を収束させドイツに対する圧力の増大に成功しました(この三十年戦争に対しては別のリンクで説明)。
また、イギリスと連合してピレネー条約(フランスとスペイン間の条約、スペイン女王をルイ14世の妃にし、フランスはアルトア・フランドルの一部、ルションを獲得)によってスペインからピレネー山脈より東の地を獲得。フランスの国際的地位を高めました。
このように対外政策で見事な手腕をみせたマザランでしたが、国内政策では必ずしも成功といえるほどの成果を出すことはできませんでした。
三十年戦争終結の年にフロンドの乱というのが起きます。
きっかけは、三十年戦争で悪化した財政を立て直そうと導入された新税などでした。また、お金で官位を購入できるようにもしていました。つまり、お金を払って貴族になれるってことですね。
この新しく貴族になった者達が王の権力拡大に抵抗。やがて、マザランの支配に不満をもつ王族、貴族や市民らも合流しルイ13世やマザランは一時パリを脱出しなければならない危機にも陥ります。最終的には、マザランの召集した軍によって内乱は鎮圧されます。
このマザランが1661年に亡くなると、これ以降はルイ14世による親政が展開されていくことになります。親政というのは、国王が自ら政治に直接かかわっていくことですよ。
太陽王といわれたルイ14世。この時代にフラン主はヨーロッパ第一の強国となり、文化的にも黄金時代になっていきます。ルイ14世については、また別の機会にお話しましょう。
>太陽王 ルイ14世
|
|
|
|