明治天皇は孝明天皇の第2子として1852年11月3日にお生まれになりました。幼少の頃は、模様のついた振袖をおめしになり、髪は稚児髷、白粉までつけ、まるでお姫様のようだったといいます。また、いたずらっ子で勝気であり、女宮たちを困らせたともいいます。
そんな明治天皇も1867年、孝明天皇の急死により、16歳という若さで天皇の位を受け継ぐことになります。
1867年といえば大政奉還の行われた年。翌年には、王政復古の大号令が出され新政府が樹立。日本が近代国家へのスタート切ったといえる年でした。
近代天皇国家が確立する中、天皇に求められるようになったのはリーダーシップとカリスマ性です。
1889年に発布された大日本帝国憲法では、「大日本帝国は万世一系の天皇がこれを統治する」「天皇は神聖であって侵してはならない」「陸海軍は天皇に直属する」など強大な権利を持つことが定められます。
しかしながら、それが己の意思を貫き通せるような絶対的権力であるというのとはちょっと違ったようです。
1894年には、日本と清との間に戦争が始まります。当初、明治天皇は、この戦争に消極的であったといわれています。しかし、己の意思に反し戦争は始まってしまいます。
不本意ながら始まってしまった戦争。しかし、明治天皇は開戦後、広島の大本営に赴き政務に励みました。そこでの明治天皇は兵士たちと苦難を共にする為、暖炉もつかわず、蚊帳を吊るすことも禁じ、殺風景な部屋で執務を続けていたといいます。
また、1904年の日露戦争でも、明治天皇は戦争を回避すべきだと考えていたようです。
「よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらん」
これは、明治天皇の御製ですが、意味は「四方の海にある国々はみんな兄弟姉妹と思う世に なんで波風を騒ぎ立てるようなかとするのだろう」といったところです。この御製からも、明治天皇が日露戦争に反対だったことがわかりますね。
ドナルド・キーン氏の「明治天皇」によれば、[天皇は軍服を好んでおめしになり、陸軍演習の統監が好きだったのとは裏腹に、心底、戦争嫌いであったことは事実である。]と語っています。たしかに、教科書などの明治天皇の写真では軍服姿をよく目にします。また、戊辰戦争、日清、日露戦争などから明治天皇というと戦争のイメージが強いのですが、実際の天皇は、戦争嫌いだったのですね。
とはいえ、日清戦争、日露戦争ともに日本は勝利をおさめ、世界の強国と肩を並べんばかりになっていきます。
そうして天皇の指導者としての威厳も強まる中、持病の糖尿病が悪化し、1912年に明治天皇は崩御されました。61歳でした。
この明治天皇の死について、宮内省では明治45年7月30日午前0時43分と発表しています。しかし、関係者の残された日記などには、いずれも7月29日22時43分となっている・・・。つまり、2時間ほどズレているのです。当時の宮内省は、お亡くなりになられたその日に改元など多くの手続きを済ませなけらばならない事情があったようです。しかし、22時43分に崩御されたので、残り1時間と少ししかない。そこで、臨終の時間をずらし午前0時としたようです。
現在ではちょっと考えられないようなことも内々で行われていたようですね。
その明治天皇を祭神とする神社、明治神宮は1920年建てられ、明治天皇の誕生日である11月3日は現在「文化の日」となっています。
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