歴史年代ゴロ合わせ暗記  

歴史年代ゴロ合わせ暗記>三国干渉受け入れ

なぜ日本は三国干渉を受け入れたのか?


 日清戦争に勝利した日本は、清との間に下関条約を結び、朝鮮の独立の承認、台湾・澎湖諸島・遼東半島の割譲、賠償金2億両(3.1億円ほど当時の国家予算の2倍の額)、港の開港を獲得します。

 ですが、ここでロシアから、この下関条約の中で遼東半島の割譲に”ものいい”が入るんですね。当時のロシアは南下政策といって南に南に自分たちの支配権を広げていこうと考えていたんですが、この遼東半島を日本にとられてしまうと日本が東アジアに進出するきっかけを与えてしまう・・・。つまり、都合が悪かったんですね。ですから、おなじく東アジア進出を目論むドイツと軍事機密を結ぶフランスを誘って3国で日本に遼東半島は清に返しなさい!と訴えてきます。これが三国干渉ですね。

 「なんで、お前らが口出ししてくるんじゃい!関係ないでしょ!」

 って感じですが、結局、日本はこの三国干渉を呑むことになります。

 まぁ、ロシア、ドイツ、フランスを敵に回して、と戦争を終えたばかりの日本が勝てるわけもないので仕方がないような気もしますが、この三国干渉を受け入れたのに大きくかかわっていた1人が陸奥宗光。カミソリ陸奥と呼ばれ、江戸末期に結ばされた不平等条約改正に大きく貢献したあの陸奥です。

 当時の情勢などを踏まえ、明治政府、そして陸奥宗光は、なぜやすやすと三国干渉を受け入れたのか見てみましょう。

 三国干渉を受けた日本には3つの選択肢がありました。ひとつは、三国の干渉を無視!二つ目は三国干渉を受け入れて遼東半島を返す。そして3つ目は列国会議を開いて処理する。当初は、3つ目の列国会議を開いて処理するに決定していました。あわよくば何とかなるかもしれませんからね。

 しかし、病気で療養中の陸奥は、これに反対します。

 下関条約は、清との間で結ばれていましたが、批准といって最終的な手続きの前だったんですね。列国会議となれば、時間が掛かる。その間に清が他国と結んだり、会議でも各国が利害関係をむさぼり、下関条約自体が破棄される可能性だってあったわけです。

 そこで、陸奥が出した案が三国干渉に対しては譲歩するしかないが下関条約の変更は許さないという態度で臨むというものでした。

 結局、明治政府は、陸奥の意見を受け入れ、5月5日に遼東半島の放棄を三国に伝え、5月8日に予定していた通り批准書の交換を済ませ、5月11日に清との間で遼東還付条約が結ばれ、代償金3000万両(およそ4700万円)を貰い遼東半島は返還されました。

 これぞ、外交!って感じですね。

 中学や高校のテストなんかでは、ここまでの問題は出ませんが、難しい大学受験なんかだとこういった政治的判断やその経緯などが出題されることがあります。覚えておきましょう。