なぜ日本は不平等条約を改正できたのか
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江戸幕府が締結させえられた不平等条約。明治政府は、これを改正するために四苦八苦することになるのですが、その経過をみていきましょう。
まず、不平等条約とは何か?
まぁ、いわゆるペリーが浦賀にやってきて開国を迫ってからの日本にとって不平等な条約ですね。日米和親条約←これは、「日本が一方的にあなた方を最優先しますよ」っていう片務的最恵国待遇を日本は背負うことになります。
そして、アメリカのハリスによって結ばされたのが日米通商条約。これによって「領事裁判権の承認」(外国人が日本で犯罪を犯しても日本の裁判で裁くことはできない)や「協定関税制(関税自主権)」(日本は関税を勝手に決めることができない)といった不平等な条件を日本は背負うことになります。
これらの条約は、アメリカだけにとどまらず、和親条約はオランダ、ロシア、イギリスと結ぶことになり、通商条約にいたっては最終的には15カ国と結ぶことになるんですね。
ですから、明治政府としては、江戸時代に結ばされた、これらのひどい条約を改正させることが重要な課題のひとつとなっていました。
具体的に言うと「最恵国待遇の相互平等化」「治外法権(領事裁判権)の撤廃」「関税自主権の回復」を目指したわけですね。
では、どのようにして、この不平等な条約を改正に導いていったのか?その経緯を見ていきましょう。
1.岩倉遣外使節団(1871年)
岩倉具視や大久保利通、木戸孝允といったメンバーが新政府として訪礼と視察、そして条約改正の予備交渉としてヨーロッパとアメリカに渡っています。およそ2年近く欧米文化を学び取り、日本との文明の差は40年あまりとみて、近代産業の確立が重要と考えるようになるわけですが、予備交渉の方は相手にされず失敗に終わっています。
2.井上馨(いのうえかおる)外相(1879年)
外国人裁判官登用を条件に条約改正にのぞみますが、国民の反対にあって失敗しています。
3.鹿鳴館(1883年)
外国人を招いて舞踏会を開き日本も欧米並みの文化をもつ国だということを誇示し条約改正を有利に進めようと考え東京の日比谷公園そばに鹿鳴館という西洋建築物を建設しました。
4.ノルマントン号事件(1886年)
日本人条約が見殺しとなったイギリス船沈没事件。イギリス領事裁判所は船長に軽い罰を与えただけだったことなどから条約改正を求める国民の声は強くなります。
5.大日本帝国憲法発布(1889年)
日本は自前の憲法を制定しますが、この理由のひとつが条約改正。欧米並みの制度を取り入れ対等な扱いを受けることへの狙いのひとつ。
6.陸奥宗光(むつむねみつ)外相(1894年)
日英通商航海条約。イギリスが日本の近代化の努力を認め、日本との条約改正に同意し治外法権を撤廃。
7.日清戦争の勝利(1895年)
日本が日清戦争に勝利するとアメリカをはじめとした各国も治外法権を撤廃します。
8.日露戦争に勝利(1905年)
日清戦争に加え、日露戦争でも勝利したことにより国際的地位が向上します。
9.小村寿太郎(こむらじゅたろう)外相(1911年)
アメリカとの関税自主権回復交渉に成功。これにより、治外法権の撤廃だけでなく関税自主権を完全撤廃となり国際的に欧米諸国と対等な国家となります。
まぁ、長い道のりですね。岩倉遣外使節団から40年。やっと、欧米列国と対等の立場になれたわけです。
まとめると、条約改正成功の要因としましては…、
1.近代産業の発展に伴い国力の充実
2.日清、日露戦争勝利による国際的地位の向上
3.近代法典(大日本帝国憲法)の整備
あとは、国民の理解と協力、さらに当時の政治家、外相の努力ですね・・・。
特に陸奥宗光と小村寿太郎は、条約改正では必ず挙げられる名前ですので覚えておきましょう!
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