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所在地:
坂上広野麿屋敷跡:大阪市平野区平野本町3丁目
坂上広野麿墓:大阪市平野区平野市町1丁目(坂上公園内)
坂上春子姫墓:大阪市平野区平野宮1丁目 |
当地は、古くは摂津国住吉郡杭全郷に属していたが、9世紀の初め、征夷大将軍坂上田村麿の次男・広野麿が朝廷より、この杭全荘を賜り所領とした。地名の「平野」は、その名「広野」が転化したものと伝えられる。
これとは別に、当地が、かつては広く平らな原野であったことから「平野」になったとする説もあるが、この地には、広野麿の子、当道が9世紀半ばの862年(貞観4年)に地主神を祀った杭全神社や広野麿の妹で桓武天皇の妃であった春子が帝の崩御後、兄を頼り当地に来て創建した長宝寺などが、広野麿や春子の墓と共に存在し、ロマンを感じさせる「広野」説を採りたい。
平野に定住した広野麿の子孫は、代々民部を名乗り、宗家は平野殿と呼ばれ、その庶流とされる平野七名家(井上、末吉、成安、三上、土橋、辻葩、西村など)によって、10世紀から15世紀にかけ、泥堂、野堂、西脇、流、市、背戸口、馬場の各地域を開発し、治めていた。(泥堂、野堂の地名は1974年(昭和49年)平野区の誕生と共に消えてしまったは惜しまれる)
この七名家の中には、江戸時代の初め、大坂の道頓堀を切削した成安道頓や、海外貿易に活躍した末吉一族などが有名である。また、この七名家が発起人となり、1717年(享保2年)に大坂最初の町人の私塾である「含翠堂」を開校するなど、経済や教育面で中心的な役割を果たしている。
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[参考資料] 『平野郷小史』 杭全神社パンフレット
坂上広野麿の屋敷跡 |
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広野麿は、嵯峨、淳和の二帝につかえ、右兵衛佐に任ぜられこの地に永住し、828年(天長5年)3月に亡くなっている。
広野麿屋敷跡の石碑はアパートの囲まれるように建っていた。犬猫の糞害を防ぐためか、石碑の周りにはペットボトルが縛り付けられてあった。 |
坂上広野麿の墓 |
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墓の傍に建っている「坂上広野麿墳墓」の石碑。
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広野麿の墓は上記「屋敷址」から1km程離れた「坂上公園」の一角にある。
墓はレンガで囲まれ、石碑や案内板が無ければ、花壇の植え込みと間違われてしまうような大きさである。 |
坂上春子姫の墓 |
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杭全神社に隣接した長宝寺の墓地にある「坂上春子姫」の墓。 |
「春子姫の墓」の横には坂上家一族の墓がある。
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