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大塩の乱(2)
坂本鉉之助の墓 所在地:大阪市中央区中寺2丁目 「大倫寺」
最寄駅:地下鉄谷町線「谷町9丁目」下車、千日前通を西へ
最初の筋を北に入る、約200m西側。
大塩平八郎の決起の経緯については大塩の乱(1)で述べたが、 この蜂起は僅か半日で鎮圧されている。
 一番大きな要因は、内部からの密告者が出たため、決起を早めざるを得なくなり、準備不足にならざるを得なかったことがあげられる。一方、鎮圧側においては、 事件当時、大坂城警固担当の玉造口与力だった坂本鉉之助俊貞の働きが特筆される。この乱の鎮圧功労者坂本鉉之助の墓が大阪市中央区の「大倫寺」にある。
 事件が勃発後、鉉之助は玉造口定番・遠藤但馬守胤統の命により、東町奉行跡部山城守の指揮下に入り、鎮圧に出動した。
 大塩方は、最初の砲撃戦となった内平野町では、西町奉行堀伊賀守配下と遭遇、決起に駆けつけた農民や途中引き込まれた民衆で300名以上に膨らんでいた乱の参加者 達は砲撃におびえ、四散し100余名となってしまった。次ぎの主戦場となった淡路町の銃撃戦で、 東町奉行跡部山城守配下と遭遇、鉉之助自ら銃をとり、大塩方の大筒方梅田源左衛門を射殺したため、大塩方は現場の指揮官を失い総崩れとなり、離散し始め、小競り合いともいえる2つの市街戦で大塩方の挙兵はあえなく鎮圧された。
 この戦いの功により、鉉之助は旗本(御目見末席)となり、1838年(天保9年)新設された大坂城御鉄砲方に就いている。
 鉉之助俊貞の父坂本孫八郎俊豈は信州高遠藩士、荻野流砲術家で、荻野流に工夫を加え荻野流増補新術と称した。兄孫四郎俊元がこれを継ぎ、天山流と云われた。
鉉之助は7歳のとき、大坂城玉造口与力をつとめる坂本本家(後に大坂荻野流宗家となる)の養子となったが、砲術は17歳まで兄孫四郎のもとで学んでいる。
鉉之助が乱の後に記した『咬菜秘記』は事件を遡る、1821年(文政4年)平八郎との出会いや、事件の経過などが述べられており、当時の実情を知る上に欠くことの出来ない第1級の史料とされている。
 余談だが、明治維新に多大な影響を与えた吉田松陰が、26歳だった1853年(嘉永6年)諸国への遊学途中に桃谷(現生野区)の鉉之助宅を訪問し、教えを受けている。松陰はその時の感想を「甚だよし。和流砲家には学力彼れ是れ珍敷しき人物なりと存じ奉り候」と、萩に住む兄の杉梅太郎に手紙で知らせている。既に老境に遭った鉉之助は親子ほど年の離れた初対面の青年に快く対応し、熱心に自説を説いた。と伝わり、鉉之助の人柄がしのばれる逸話である。
[参考資料] 大塩の乱に関する資料は多くある。森鴎外も史実を基に小説「大塩平八郎」を書いている
大倫寺山門 大倫寺山門。北隣りは鴻池一族の墓がある「顕孝庵」
坂本鉉之助俊貞の墓と左側は鉉之助夫人の墓。
夫人の墓は「坂本俊貞室之墓」と記されている。
鉉之助は1791年(寛政3年)信州高遠に生まれる。
1860年(万延元年)70歳で死去。
坂本鉉之助の墓
坂本鉉之助顕彰碑 山門を入ったところに建てられている鉉之助の顕彰碑「剛毅君之碑銘」。
碑文の最後に「文久二年壬戌五月 浪華府学懐徳書院教授並河鳳来謹撰」と記されており、1862年の建立であるが、元の碑は砂岩に彫られていたため、風化による剥落が見られ、新たに大理石に彫り直されている。
この並河鳳来は並河寒泉の別名で、懐徳堂は大坂を代表する学問所であった。
大坂の私塾(2)中井一族の墓を参照乞う。

史跡-079/TTL-304

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