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所在地:
一心寺:大阪市天王寺区逢坂2丁目
海泉寺:大阪市浪速区恵美須西1丁目、今宮戎神社隣り
十萬堂跡:大阪市浪速区恵美須西2丁目 |
小西來山は江戸前期に活躍した談林派の俳人で、1654年(承応3年)大坂淡路町の薬種商小西左衛門家に生まれた。7歳の頃から西山宗因門下の前川由平に書画、俳諧を学び、その後直接宗因についた。18歳で点者になり、大坂談林派の興隆に大きな功績を残した。
色々なエピソードを持ち、『お奉行の 名さへ覚えず 年暮れぬ』の句は奉行を愚弄したとして、大坂から追放され、今宮村に「十萬堂」という庵を建てて移り住んだという話が伝わっているが、確実な資料はないとのことである。又、無類の酒好きで「日本の李白」といわれる程であったと伝えられている。
著書に、「今宮草」「続今宮草」がある。1716年(享保元年)10月 62歳で没した。
墓は天王寺区の一心寺と浪速区の海泉寺にある。句碑は一心寺、四ツ橋跡、大阪天満宮、今宮戎神社に建られている。
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[参考資料] 『大阪人物辞典』三善貞司編 清正文堂出版社 |
一心寺境内墓地建つ墓 |
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一心寺の墓地にある來山の墓。右側側面には「享保元年丙甲10月3日終」の刻がある。 |
海泉寺境内に建つ墓 |
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海泉寺の墓地にある來山夫婦墓。
墓石には「道法/貞林」の刻がある。この墓は1915年(大正4年)來山200年忌の際発見された。
海泉寺の開基は1186年(元暦元年)後に法然上人の 弟子となる作太夫(海泉坊)が海から引上げた洒落木で観音像を彫り祀った旧跡と伝わる。 |
十萬堂跡 |
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阪堺線「恵美須町駅」の近くにある「十萬堂跡」の石碑。來山は晩年、ここ今宮の地に居を構え「十萬堂」と名づけ閑静な余生を送った。この「十萬堂」は戦前まで存在したが、戦災で焼失した。
石碑の横の説明板の文字は消えてしまって全く読めない。
囲いの中はゴミの山で、(ゴミの収集場所と勘違いしている人がいる?)写真を撮るために、これらを脇に寄せて撮影した。 |