* 目次 *

 
第一部 井岡寺の歴史

   ①古代から中世   飛鳥・奈良時代
                平安時代
                鎌倉時代
                室町時代
   ②近世           江戸時代
   ③近代        神仏分離以降

    中記 

 第二部 名所・旧跡・地名・墓地

   ①旧跡
   ②地名など
   ③諸墳墓    後記

 

 


はじめに 

井岡寺がある井岡村は昭和の中頃まで、山形県西田川郡「大泉村」にありました。昭和三十年大泉村が鶴岡市に合併するときに、「大泉村史 正・続」が上梓されました。 井岡寺はその中でかなり大きいスペースを割かれていますが、廃版となった今は市の図書館でぐらいでしかお目にかかることがありません。 また鶴岡市「市史」もまた合併以前の編集ですので、井岡寺の記載は僅かです。 その後当時の総代の小野与兵ヱ氏が小雑誌「我らが菩提所井岡寺」昭和四十二年及びに「井岡寺周辺の旧所名跡」昭和四十六年を上梓され  檀家諸氏中心に配布されましたが、以来残部もなくなり、それきりになっていました。

今また 歴史記録を再検討し「我らが菩提寺井岡寺」等を再編集してはいかがということで、年表等の資料編も新たに付け加え編んでみることにしました。

(なおこれは小雑誌用にまとめたものを修正、加筆して転載しています。そのために構成が第2部が別ページであるなど、変だと思われるかもしれませんが大目にみてやってください。) 

 現在の井岡寺の正式名称は 「真言宗智山派 大日山 井岡寺」で、京都の智積院を本山とする、新義(系)真言宗の宗教法人です。

 真言宗智山派の寺院は関東地区では成田山を初め川崎大師、高尾山、高幡不動など、京都では本山智積院、六波羅密寺が有名です。

 山形県の庄内地方になりますと当鶴岡市内では 南岳寺、七日町(達磨市の)観音堂、寺田円蔵院(井岡寺の末寺)、馬町の地蔵院、中山の大経寺、矢引の宮泉寺。 朝日村湯殿山注連寺。酒田飽海地区では、生石延命寺、市内海向寺、談義所龍厳寺、鳥海山竜頭寺、剣積寺、女鹿松葉寺などがあります。(詳細は庄内智山寺院縁起へ) 

 


 第一部 

 

一。古代から中世


=飛鳥・奈良時代=

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  井岡の山を歩くと、空堀の跡や土塁を見る事ができます。東の方は後世寺社が建ったりして判かりにくくなっていますが、東、南、北大門という地名も残っています。西の方も城門の跡らしき所は確認できます。内郭、外郭の区別も出来、陸奥の多賀城や、出羽横手払田の柵などに匹敵する規模という人もいます。
 井岡の地は、越の国、新潟県から出羽(特に庄内)の穀倉地帯に入る入り口として大和政権が進出するときの重要地点と考えられます。出羽郡、出羽の柵が設立されたのが和銅元年(708年)で、郡衙、柵等も設立されたでしょうから、その類に比定されます。(706年越後城説もあり)和銅五年(712年)出羽国に昇格するほど安定すると、藤島に施設(国府?)を移動、その後坂上田村麻呂の奏上で井口(酒田市説あり、井岡ではない?)に国府を作ったとされます。 
 更に平安時代には城輪柵に国府が移動したようですがそれ以前の拠点として機能していたものでしょう。田村麻呂も井岡に駐屯していたかもしれません。また反対勢力にしても守りの方でも重要な場所だったと思われ蝦夷のチャシという砦説などもあります。
 井岡の城趾は城輪柵等の平地で木の柵のものと違い、多賀城や払田の柵などと同様に地形を利用していますので、或いは一時的な形態だとも思われます。だとすれば寺社が建つ以前の物と考える事も出来ます。
 従来言われてきたことを述べてみましたが、どちらにしても内郭と思われるところの発掘でもしないと解らないことです。
 城輪柵などは発掘もなされ史跡公園として復元もされていますが、それ以前の庄内の古代史は史料が少ないこともありますが、あまり注目されることもないのは残念です。


=平安時代=

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 言い伝えによれば、井岡寺は天長二年(825年)淳和天皇第三皇子基貞郷が弘法大師の弟子として、名を源楽と称し高野山で修行の後新仏教である真言宗を広めるため諸国を巡り、出羽田川郡に着いたとき、当地を紫雲たなびく霊地と認め天皇家の祈願所、勅額寺阿伽井坊遠賀廼井寺として堂宇を建立したのに始まるといいます。
但し残念ながら記録は全く残っていず、寺にも中央にもそれらしき物はありません。基貞親王は、天長四年生まれ。承和十年三品、承和十三年上総太守、嘉祥二年辞職大乗戒を受く、貞観十一年四十二才で薨ず。と実際は少し時代が下るようです。ただ貞観三年(866年)瑜伽寺が定額寺(国分寺に次ぐ官寺)として認められた記録があります。遠賀寺が瑜伽寺となまったものかも知れません。
 また、遠賀神社は岡山の山(旧称 岡の口村の伊波手井山)にあり当時遷座したもので、今でも岡山にはその跡地に礎石が残るとも言われています。祭神の大山祇の命は、海士族の神で大三島神社や住吉大社との関わりが考えられますが、井岡に吉住姓が多いのは住吉とつながりがあるのでしょうか。また湯田川の由豆左売社祭神は大山祇の娘とのことですので親子関係にあります。
 そのころの伽藍は南向きになっていて、門前町として井岡と岡山の間に、「浪の町」の集落がありました。耕地整理の際井戸枠や石組みなどが発見されたと聞いています。 平安時代の道路は官営で6mほどの広さがあり、おそらく岡山から井岡寺の門前を通り(或いは中尊寺のように山内を通り関所になっていたかも知れません)現在の鳥居の前から直線で新山口を通り更に東に延びていたようです。 新山口までの間は老樹鬱蒼と繁り堂塔立ち並んでいたともいいます。江戸時代の記録に上古の絵図には鳥居は鳥居ヶ丘(新山口交差点付近)よりも東の方に描いてあると記されています。この道路は高速道建設の際の発掘で一部確認されましたが、何処まで延びていくかは今後の調査に期待します。なお直線を延ばすと遠賀原の遠賀神社を通り、更に羽黒山に行き着きます。 (現在の仁王門の所にあった中坂の中門も護摩堂の建築中心線とずれて羽黒の方を向いていた形跡があります)たかおかみ遠賀原などの遠賀神社は旅所とか若宮の性格があったかもしれません。そのあたりに赤川の渡しがあったとも考えられます。井岡の祭神の高?(たかおかみ。雨かんむりに口3つに龍、レイ。Unicode:9f97)や遠賀は宇賀にも通ずるとされて水神として認められ、今でも蛇の絵が神社に奉納されているのを見ることがあります。

神社幟 延喜年間(905年起草)には延喜式が編纂され神名帳に出羽では9社が記載されています。(内、庄内では6社、残り3社は秋田県) 大物忌社、月山社(大社:2社)。小物忌社、出羽社、由豆左売社、遠賀社(小社:4社)。
 庄内の寺院では他に南山(金峰山のことと思われる)龍華寺(今の青龍寺?)とか竹澤寺(不明)などは記録に出てきます。その他にも官幣大社小社には神宮寺が付属していたと思われますので相当数があったはずです。
 その頃真言宗や天台宗が地方に進出して、天台の僧ですが出羽講師という位を持って出羽の国分寺に派遣されたこともありました。国府が「城輪柵」にあったのですから、国分寺、尼寺も近くにあったと見なすべきで、(堂の前、本楯遺跡がそうであろうとされています)庄内地方にも真言、天台宗がこのころから急速に広まったものと見られます。 そのころの宗派は、個人の僧が何を専門に勉強しているかで、むしろ個人の学派で、寺院は学校や博物館であり、かつ病院、福祉施設の様な性格もありました。
 平安時代も後期になると、庄園制度が発達し中央の大寺院の末寺になり。庇護を受け便宜を図ってもらえる都合があるため 寺院としての宗派も発達するようになり、おそらく井岡寺も醍醐寺末となったと思われます。(醍醐寺の記録に文治三年愉伽寺として記載){※ 愉伽寺は内陸説もあり。また、戸川安章氏は遠賀野井寺=仁和寺末説}
 当寺に残る物では おそらく11世紀の地方作でしょうが十一面観音がもっとも古く、現在の本尊として奉られています。
 いずれにしても、その伽藍は広壮華美を極め、七堂伽藍(塔、金堂、講堂、経蔵、鐘楼、中門、大門)や三十三坊を備えた州中の巨藍として 出羽高野と呼称され広く尊崇を集めた と言われています。このころ平泉では平泉文化が花を開いていましたし、このあたりの領主は田川氏で羽黒山造営等にも記録が残っていることや、清衡なども(寺院を)陸奥出羽村毎建立一万宇などと吾妻鏡にも記載されていますので、当然それらからの庇護もあり得ることです。
 平泉と言えば源義経ですが、当寺にも例に漏れず立ち寄ったとの伝説があり義経、弁慶の書が残されています。(確証はありません) 当時のルートとしては三瀬葉山(現在の八森山、現在の矢引宮泉寺がここにあったらしい)から中山経由で山沿いに田川氏居館に立ち寄り羽黒に上るか 上陸が鼠ヶ関とすれば345号線沿いに(この方が本道)来るかの方が、由良坂弁慶清水経由よりも現実的ではあり、少なくとも門前を通った可能性はあると思います。(文治2年1186年)
 むしろ鎌倉方の比企の伝説の方が残されています。比企能員が北陸道を鎌倉方の大将として平泉に攻め上る際。(文治5年1189年田川氏はこのときに滅亡)井岡寺の門前を馬上で「この寺はなんという寺か」と尋ねた所 失神し落馬してしまった、観音様の前を騎の乗のまま過ぎるのは礼を失するとのことの様で、寺僧が祈祷介抱しやっと我に返り、その夜の合戦に勝利することが出来た。(能員が陣所としたという説もある)以降井岡寺に帰依し鎌倉殿に言上、鎌倉殿の祈願所となった。その後比企氏が滅ぼされ一族の生き残りが寺まで遺髪を持ち来たり供養した とのこと。後世の物でしょうが井岡の山の西方に墓(供養塔:「地名など」に画像)があり、位牌も残されています。伝説はともかく何らかの関係があったのかも知れません。
 また頼朝が願主の羽黒山黄金堂建築時奉行であった土肥実平の墓と云われる物もありますが由来は不明です。

比企能員・土肥實平と井岡寺のページ追加2021


=鎌倉時代=

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 さしもの伽藍も 治暦年中(1065~069)焼失し、その後120年間もなかなか復旧しえなかったが、建久年中(1190~1199)鎌倉殿の祈願所として整備された(前記)とあります。 庄内領主武藤氏の信仰特に厚く建仁3年(1203)には次のように庄田の寄進があったとされています。
                     (中興1世及栄遺状 1600年頃) 

  奉為前大納言征夷大将軍源頼朝公菩提岡大権現本地観音灯明分
    三百石六斗八合之所 大表也
  巡国使比企藤四郎義員為先君御菩提仏前灯明分
    百石之所      小表也
   建仁三年十月十二日 武藤出羽守助平
  稲岡山遠賀野井寺 満阿上人御坊

 これは江戸時代の記録で石建てであることなどにより信頼性があるとは言えませんが、一応ご紹介しておきます。
満阿上人とか稲岡とか具体的な固有名詞も出てきますので、何らかの言い伝え基礎資料があったものかも知れません。地名も稲岡と表記していた可能性もあります。
 ただ、鎌倉初期の遺物として勢至菩薩(宝冠、瓔珞、向背、台座は江戸期)は保存も良く阿弥陀三尊の来迎形であることなどより、三尊、またお堂として宝形阿弥陀堂があったのは推測できます。また、中尊の阿弥陀像はおそらく現本堂(護摩堂)向かって左側の薬師如来(江戸時代に改修された)がそれに当たると考えられます。観音菩薩は残念ながら残っていません。また、学頭不動院の本尊、不動明王があり、庄内地方でも希な非常に良い出来です。これは当然護摩堂(不動堂)の本尊であったと思われます。他に愛染明王画像、地蔵菩薩などもこの時代です。
 江戸時代に、現在の神社拝殿の位置に本堂建て替えの時(安永8年秋1779年)塔の心柱が発掘されました。三重か五重かも判りませんし時代も今となっては不明ですが、中世の密教寺院の最低限の建物は門、塔、金堂とされますので、少なくとも観音堂である金堂を中心に、塔、阿弥陀堂、護摩堂などが立ち並んでいたと想像されます。朽ちた仁王尊の頭部も残されていますから当然仁王門も存在していたでしょう。


 

=室町時代=

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 室町時代になっても記録は殆ど残されていません。ただ懸仏(御正体とも言う)2面の銘があるのみです。懸仏というのは、中世密教寺院では内陣と外陣がはっきりと格子等で区別されているので内陣の本尊等を伺うことが出来ないため、本尊の正体が判るように内陣外陣の境の長押に懸けて置いた、前立ちの像と同じ役目をしていた物です。一面は木製の板に青銅板を張り付け、仏像、献花2つが付いていて銘は墨書の物(直径45cmほど)、もう一面は如意輪観音を中尊に三十三観音(如意輪観音曼陀羅)を青銅で鋳出し、銘は鏨堀(直径36cmほど)の物。本来は更に一面、馬頭観音(或いは白山権現=本地十一面観音)の物もあったのではないかというのですが残念ながら残っていません。(文化財に画像)銘文以下。 

 大日本出羽於大網
          時旦那武藤
管領司武藤家宿老  渡野辺四郎左ヱ門重吉

岡大権現御正殿               (鋳銅如意輪観音の方)

          執行別当遠賀野井寺
長禄==年庚辰三月一八日 山主沙彌如海

 (長禄四年=1460年、銘文の二二は四の字を嫌ったものといいます)
 また一つには前文は同じで

岡大権現御正体 大山祇命          (木製の方)

後文も同じ。

 この二面は旧文部省の重要美術品に指定されていました。銅造の方は一部欠けていますが永禄年中(1558~1570)戦火に会い一山焼失したと伝承されていますのでその時にでも欠けたものでしょうか。
この時代になると観音菩薩鉄仏、釈迦如来、阿弥陀如来、如意輪観音、諸念持仏等、法量は小さいですが数は増えてきます。また、地蔵尊石仏(麹山地蔵尊)など、修験道や庶民の信仰に関わる物も多くなるようです。
 当寺と修験の関係はよく判っていませんが、庄内には出羽三山はもとより、鳥海山、鷹尾山、金峰山、荒倉山などがあったようです。おそらくこのあたりでは金峰~熊野長峰の修験が盛んになっていただろうと思われますので関係もあったと思われます。 田川の八幡神社には修験関係の遺物が残され、神宮寺である大経寺などは現在は中山にありますが、田川の大蔵院なども大経寺大蔵院であり相当な範囲をテリトリーとしていたようです。矢引の宮泉寺文殊堂、田川華蔵院、湯田川長福寺、藤沢不動堂、青龍寺などもみな金峰山系の修験と関わったものでしょう。
 当寺においても江戸時代になって住職が登山道を再整備したと記録にある事や(高専の裏からのルートがあった。)前記鉄仏や如意輪観音なども修験との関わりが考えられ、この当時修験道は大いに繁栄した物と思われます。

 また、最近は古代城郭とされていたものが中世の物(或いは再利用)と再認識されているものもあり、一向宗の石山寺大阪城や石川御坊金沢城などのように‘城郭化された寺院’も考えてみなければならないと思います。荘内でも同宗派龍頭寺や羽黒山の例がありますので、当寺の場合も規模はともかく全くありえない事でもないかもしれません。中世城郭寺院
 反面、山内の結束が弱くなっていたこともあったようで、鶴岡市内の東昌寺(醫王山舘之坊瑠璃光院東昌寺)などは、隠居寺として、或いはその頃は山内に墓地は作らず葬送(滅罪)の寺として存在したものではないかとも思われますが、いつのころにか末寺を離れています。


二。 近 世

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 戦国時代の混乱で灰燼と帰したものか近世以前の物は殆ど残っていないのですが、近世になると記録文書類が散見されます。 まず、挙げなければならないのは最上義光の寄進状でしょう。「最上義光黒印状」一三通。合計一四二石六斗三升四合。以下。 

① 為灯明供物の料二十石八斗七升の処 但半物成寄進候事
  永算万安可被奉祈当家之延長者也依如件
   慶長十七年六月四日 少将出羽守義光(印)          (1612年)
  井岡村観音仏供灯明分。

 以下同文にて

   二十三石六斗九升       学 頭

    十五石八斗八升二合    釈迦院

    十五石二斗四升八合    威徳院

    十八石四斗七升八合    不退坊

    十二石三斗四升八合    円光坊

     九石二斗五升八合    大学坊

     七石  四升      杖林坊

為神前掃除等の料六石七斗二升六合の地
   但半物成附置候彌可勤節者也依如件
   慶長十七年六月四日 少将出羽守義光(印)
  井岡村太夫。

 以下同文にて

     二石  七升八合    堂 聖

     一石五斗六升      戸内太夫

     三石五斗四升二合    神 子

     四石八斗五升四合    承 仕

○   二十九石九斗一升八合     見出高 (見出高は黒印状発行後の検地で増えた分)
(総合計一七二石五斗五升二合。寛永5年羽州荘内寺領20 参照)

 ちなみに江戸期の庄内地方では羽黒山(寂光寺等合計千五百石二斗二升)、鳥海山(竜頭寺合計百八十八石六斗五升二合)に次ぐ高額です。
 また、奉行の日野主馬が義光の代参として十一面観音、正観音、薬師如来の三体を奉納しています。逗子入りのため白木ですが保存が良く、真新しくさえ見えます。更に義光の母からは御輿、鉾、神楽太鼓等が奉納されています。
 この黒印状は中興一世及栄(ぎゅうえい)上人が獲得したものであり、基よりの寺格もともかく、師の政治力もかなりあったものと思われます。また、京都にも何度か上ったらしく現在鶴岡市の天然記念物になっている枝垂れ桜を持ち帰ったとも言われていますし、庭園も師が整備したものです。現在の井岡寺の基を作った方として、特記すべきです。

 かつて中世の領地は、北は白山の一本杉、東は寺田~青龍寺川、南は岡山、西は湯尻川までで、井岡(江戸期の村総高711石5斗4升6合4夕)、寺田(同768石9斗7升9合8夕)、岡山村(同258石2斗2升6合6夕) 総高千四百余石があったと言われていますが、最上氏の庄内攻めの最、井岡寺武装衆徒が武藤氏の清水城に加勢したため最上氏の恨みを買い後に十分の一程に減石されたということです。また上杉氏の太閤検地の際の反対一揆に参加したとも伝えられ、荒倉山・酒田の鷹尾山などはそれらの戦乱の処理で一山解散の憂き目にあってしまいましたが、その前後の‘中世的なものの解体’の時に及栄上人が現れたのは不幸中の幸いと言うべきでしょうか。 井岡旧記

元和八年(1622年)最上氏から酒井氏に領主が変わり、再検地がありましたが所領は安堵されました。見出高三十石弱はこのときに増えたものです。
 元和十年(1624年)に藩主の祈祷を始めた。という記録があります。当山山主が正月には湯田川長福寺山主と共に 藩主在国のおりには正月六日、城内黒書院にて年頭の挨拶を始めるようになったのもこの頃からではないかと思われます。 山内での行事の覚え書きがありますが、賄い方のものの様です。
 幕府も安定期にはいると宗教関係の締め付けが始まります。実質のない団体は解散させられたり、本末関係を再構築し管理しやすい体系に纏めていくことになります。庄内藩ではそれほどきつい締め付けはなかったようですが、当寺関係でも柳福寺=寛文三年(1663年)、竜覚寺=寛文六年(1666年)の離末証文があり、他の大寺院の末寺になっています。なお龍覚寺の領地は変わらず井岡村にありました。貞享三年(1686年)には当山が京都智山(智積院)末になりました。それまでは一山で独立していたのですが、羽黒山等でさえ寛永寺の末寺になってしまう時代でしたので、存続のためには中央の権力に頼らざるを得ない政情だったようです。
 経済的にもなかなか苦しかったようで、明和年間(1760年代)財政困難のため境内地を免税扱いにしてもらったり、寛政年間(1790年代)には寺領質入れ九十両借金、などという文書も見られます。
 しかし苦しい中でも現在見られる諸堂宇は殆ど江戸期に計画、整備された物でその記録も散見されます。観音堂(本地堂、本堂)なども、安永八年(1779年)に着工してから十年もの歳月をかけて落慶しています。やはり藩主や酒田の本間家などからの援助、 信者の寄進 (神釜銘)があった模様です。(天明八年1788年竣工。その間には塔の心柱の発見もありました。前述)構造は現在の湯田川由豆左売神社(旧長福寺 本堂:観音堂)や金峰神社中の宮の拝殿(如意輪観音堂)のようなものだったと思われます。庫院の17間×7間という大きな建物も寛政五年(1793年)の造営ですが この書院には他では見られないような立派な上段の間、上上段の間があり、藩主やその家族が折りに付け立ち寄られ、どのようなお言葉を頂いたかなどの記録が残っています。 また、護摩堂も文化十一年(1814年)落慶しています。
 これら諸堂宇の造営年代もまとめて諸表のページにありますので年表と共に参照して下さい。

江戸末期になると中興二十七世秀伝は当寺を本山格としたく、一山の再整備を始めました。現在見られる石段をはじめ仏画、仏像、備品、仁王門=安政元年(1854年)、仁王像、(=万延元年1860年)今は神社の諸小堂宇、石灯籠、石段、石鳥居=文久元年(1861年)等々。このような時の資金集めのための開帳に使用したと思われる嘉永元年(1848年)発行の略縁起の版木が残されています。
 慶応三年(1867年)秀伝が志半ばで亡くなると及賢が意志を継ぎ多額の金品を投じ運動を続けたようです。すぐに(同慶応三年)、開山上人の僧正追贈、山主の緋の衣の着用、傘の使用の許可など目的はほとんど達成されたものの まもなく神仏分離、廃仏毀釈の風が吹いてきて経済的にも無理がたたりまたもや苦境に陥る事になります。


三。 近代以降

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明治五年(1872年)当時の本寺、末寺の檀家関係の書類(酒田県に提出した物の控えと思われます)がありますので紹介します。

一、智積院末酒田県井岡村羽前国大日山井岡寺
   第二十八世 及賢  四十二才
   弟子    教任  五十九才
   弟子    賢全   十四才
   (冨樫)伝蔵、坂の上(小野)小平治、八日町(渡辺)庄右ヱ門。

一、井岡寺六供 井岡寺境内 大日山釈迦院
   第二十六世及弁   二十四才  以上一人僧 家十二軒(吉住家)
  善太郎、清五郎、清内、茂左ヱ門、源治郎、伝兵衛、善五郎、
  五郎右ヱ門、善二郎、善右ヱ門、善兵ヱ、清右ヱ門。

一、井岡寺六供 井岡寺境内 大日山威徳院
   第二十四世及岳  三十七才  以上一人僧 家七軒(小野家)
  与兵ヱ、善四郎、源十郎、治郎ヱ門、与惣兵ヱ、治兵ヱ、門三郎。 

一、井岡寺六供 井岡寺境内 大日山不退坊
   第二十五世秀法  二十二才  以上一人僧 家八軒(本間家)
  彦右ヱ門、吉右ヱ門、吉十郎、孫左ヱ門、籐三郎、馬治、彦治郎、彦三郎。

一、井岡寺六供 井岡寺境内 大日山円光坊
   第二十三世随行  三十七才  以上一人僧 家五軒(渡辺家)
  長右ヱ門、長作、作兵ヱ、長十郎、市郎右ヱ門。

一、井岡寺六供 井岡寺境内 大日山大学坊
   第二十二世賢定  二十八才  以上一人僧 家三軒(今間、進藤家)
  多右ヱ門、多郎右ヱ門、四郎左ヱ門。

一、井岡寺六供 井岡寺境内 大日山杖林坊
   第二十一世及詮  二十三才  以上一人僧 家三軒(佐藤、五十嵐、斎藤家)
  久五郎、久助、甚右ヱ門。 

一、井岡寺末寺 桜池山 円蔵院
   但当寺無住井岡寺兼務
   境内反別五畝五歩永引地高一升六合六勺
   檀家無之

総計寺院八ヶ寺(酒田県管轄羽前国田川郡ノ内)

  内
七ヶ寺   有壇
一ヶ寺   無壇(寺田円蔵院)
内一ヶ寺  無住(寺田円蔵院)
僧 九人
内住職 七人 弟子 二人

境内反別三反八畝十四歩 但永引地
此高三石八斗四升七合九勺
坪数千四百二十五坪五分 除地
檀家五十八軒
  一ヶ寺   小本山
  六ヶ寺   六供
  一ヶ寺   国末寺

 

このように明治初期までは良く一山の組織を残していました。また一山に不可欠の舞楽なども行われていたようです。面や古びた楽譜なども近年まで書院正面の長持ちの中に保存していたらしいのですが、神社に管理が移されたものと思われ現在は見あたりません。

 明治九年(1876年)当山でも神仏分離が実施されました。
 その際にはまず寺と神社の境界改めや領地配分などが行われ、それまでの9340坪から1977坪余を神社に譲り、旧寺領172.552石を 社領分36.962石と寺領分135.59石に分割し、神社は郷社となり本地堂(観音堂)は拝殿となりました。
 そこでとりあえず護摩堂を本堂とせざるを得なくなり、本堂(観音堂)の諸仏、荘厳類は護摩堂に移され、大壇は龍覚寺に引き取られていきました。仁王像も出来てから僅か16年で仁王門から追い出され護摩堂の前左右に安置され、観音堂は神社拝殿になり、仁王門は神門となりました。石地蔵などは頭を欠かれなんともいたわしい形の物が至る所にあったようです。また梵鐘は鐘楼からおろされ 護摩堂の前の裏坂と呼ばれる出来て15年ばかりの石段を転げ落とされ、その音は近隣に鳴り響き、鐘は小屋の中に放置された、とあります。
 羽黒山内の諸寺や市内大光寺、西楽寺、清水寺、真言系修験系の寺など実際に廃寺になった所もかなりあり、寺はすべて廃されるなどの噂も飛び、殊に無理な経費を投じてまでも飛躍を計画していた当寺としては、借財も嵩み信用は落ち経済的にも容易ならない窮地に陥ります。この混乱の中及賢は鶴岡龍覚寺に転住し、代わって二十九世貫識が住職となり、立て直しに敢闘したものの大勢如何ともしがたく明治十一年(1878年)三月 遂に寺領耕地を売却せざるを得なくなりました。このことについて檀家の納得を求め諒承の捺印をしてもらった書類は今も保管されています。

 更にその直後、明治十一年五月二十三日午後十一時。村の木小屋から出た火は折からの東風にあおられて民家6軒を焼き払い、山上に延焼、神社は本社、拝殿(旧観音堂)を初め十二の社殿が灰燼となり、境内の巨木を二昼夜に渡り焼き尽くしました。
 そのため神社は明治十五年(1882年)北端にあって焼け残った直会殿を移築 拝殿とし、旧藩主酒井伯爵邸にあった稲荷社を払い下げてもらい本殿として営みました。
 なお神社は、明治四十一年(1908年)には焼け残った神門(旧仁王門)を引き上げて拝殿とし、一時的に使っていた旧直会殿を元に戻し、その後鳥居ヶ丘の鳥居を現在の地に移設しました。更に昭和三十年(1955年)八月茅葺きだった拝殿を瓦に葺き換え、昭和五十年(1975年)には本殿が老朽化のため建て替え造営、直会殿も昭和六二年(1987年)規模を縮小して建て替えられています。直会殿は火災時に唯一残った建物でおそらく拝殿とした時に解体された鶴岡城の瓦を転用した物と思われ再建時に廃棄され割れた「赤瓦」(外部リンク)が境内に散見されます。

 経済的な苦境に陥りつつも奇跡的に類焼を免れた当寺でしたがその後同年内(明治十一年十二月)に貫識が湯田川長福寺に転住し、しばらく無住で過ごしました。
 その間、明治20年(1887年)には井岡簡易小学校として開放され、同25年(1892年)には大泉尋常小学校第3分校に名称が変わりました。しかし同34年(1901年)に廃止となっています。学校関係といえば、参道の途中に「鹿児島県士族 原口祐之」明治九年の石碑があります。この人は朝暘学校の建設時の監督で、(その後山形の済世館病院建設などの監督もした)裏には大工頭高橋権吉(大山安良町公民館の棟梁)始め大工、石工など工事関係者の氏名が詳しく彫ってあり、この人達が原口の寿碑として建てた様です。近年の仁王門再建の時、門の建った所(阿形の右足のあたり)に護摩堂に向ってあった物を移設しました。

 明治三十七年(1904年)周慶が三十世住職になりました。まず第一に手を付けたのは、青壮年の道徳教育でした、「興道会」を発会して青壮年を団結させ精神の鍛錬、家業の精励をすすめるとともに、学校通学の児童にも私費を投じ夜学会、補習学校を興して学業を修得させました。この熱意に動かされて青壮年の気風は立ち直り、小学校の成績も向上の一途をたどり地域の模範となったということです。 次に宝蔵の改築に手をかけ明治四十一年(1908年)これを完成、同四十五年より(1912年)より大正二年(1913年)にかけては護摩堂の瓦葺き替えを完了。昭和九年(1934年)には書院の瓦葺きをしています。なお書院の葺き替え直後同年十二月三十一日、麓隣家より出火、東風にあおられた火の粉が書院に降り注ぎ 危うしと見られましたが、瓦屋根になっていたため難を逃れたということです。同十二年(1937年)には、土蔵造りの開山堂を新築、檀家菅家の紹介でしょうが菅家の縁者石川拝山が天井絵、板戸、書院板戸などに絵筆をふるっています。
 このように衰微していた井岡寺もようやく息吹を取り戻しましたが、周慶は昭和十五年四月二日(1940年)亡くなりました。直ちに弟子周範が三十一世を嗣ぎましたが、同年十二月四日亡くなります。そこで当時満州国安東にいたやはり周慶の弟子中里周城を迎えることにしましたが、終戦時北朝鮮で病没したことが判明してまた無住の時代に入ります。その間 太平洋戦争時金属供出で仏具類もなくなった物もあるようです。また、昭和二十六、七年頃(1951,2年)大雪のため書院正面大玄関屋根が潰れ大修理しています。

 昭和二十九年(1954年)になって大澤榮繕が三十二世として入山しました。同三十八年(1963年)には糀山地蔵尊を国立高専建築のため護摩堂前に遷座、同四十五年(1970年)塔の腰地蔵、宝篋印塔が宅地造成のため遷座。このとき塔の山は崩され平地となってしまい宝篋印塔も突き落とされバラバラに散乱していました。このため急ぎ方位も確認されずに組み立てられた様です。またこのころ護摩堂の屋根瓦の葺き替えもしています。同五十八年(1983年)渡り廊下老朽化のため建て替え(以前の廊下は文化十四年、1817年のもので何かの古材を使用していたようです。166年間使用)、またこのころ書院の葺き替え、同六十年(1985年)参道の改修、平成元年(1988年)には現仁王門石段、石垣造営、同四年(1992年)に神仏分離以来の懸案であった仁王門再建、仁王像修復をしています。元からあった中坂の中門は解体されています。仁王尊は造像されてから17年間本来の門で過ごし、その後115年間は仮住まいしていたことになります。平成十三年には宝蔵を老朽化のため改修、外観も一新されました。


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中記

 師、戸川安章先生のお話しの中で、「これはヒストリーではなく、ストーリーだ。」というのがありました。史料に乏しい場合はしょうがないんだなぁと。妙に納得。 これらもその類ですので、ほんとかなと思いながら 気楽に読んでい戴ければ幸いです。


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