☆寄稿 介護で人生が豊かになった

 現在94歳で要介護度3の父と同居し介護している。

 父の様子が変だと思い出したのは平成17年頃だった。仕事から帰ると冷蔵庫に魚の干物が入っていた。父に聞いても知らないと言うので誰か知り合いがくれたのかと思ったが、これが二度三度と続き、ある日行商のおばさんが来て納得した。また、屋根の破風の塗り替えや下水道管の掃除の領収書が入っていて、父が契約して支払いも終わっていることが後で判ったこともあった。

 *講演会の話で相談へ
 平成18年になって、父の部屋の積み上げられた書類の山から、たまたま厚生年金の現況届の督促状を数枚見つけた。その頃には父の認知症を疑うようになっていた私は、松江市が主催した「認知症予防講演会」で、「中ボケ、小ボケは治る(対応方法がある)が、大ボケは治らない。早い対応が必要」という話を聞き、すぐ包括支援センターに連絡して話を聞いて、介護認定申請をしデイサービスの体験をさせることにした。

 全く内向的で頑固で自分勝手、ほとんど他人との交流がなかった父がデイサービスに行ってくれるか不安だったが、たまたま体験で行った施設の利用者に父の小学校の同級生がいたため決断。平成19年3月に要介護1の認定を受けてからその施設に通うことになった。

 *「おかしい」と思ったらすぐ
 その後、介護認定更新の際にケアマネに勧められて専門医に診てもらったら、相当進行したアルツハイマー型認知症と診断され「なぜもっと早く来なかったか」と叱られた。自分では早く動いたと思っていたが、おかしいと思ったら何より早く専門医に受診すべきということを学んだ。今では様々な場所で、話が出れば早期受診を勧めている。

 *早期退職を決断
 最初は週2回のデイサービスから始め、ヘルパーさんを頼み、ヘルパーの回数を増やすなどしてやってきたが、介護度が上がり対応が難しくなったため早期退職して在宅介護を続けた。それは、まだ比較的意思疎通ができた頃に、父に「施設で見てもらうかね」と聞くと「家がいい」と聞いてしまったこと、他人の介護体験は、自分とは比較にならないほど大変な現実を見聞きしたためだ。まだこれくらいなら自分でもできると思ってやってきた。

 昨年から急速に症状が進み、ある日の朝ベットが便と尿でひどいことになっていて驚いた。それまでも意思疎通はなかったが、それからはトイレに行かず、声をかけても起きないため、むりやり力づくで起こして朝食を食べさせ、デイサービスに送り出す日々である。

 *当てはまらない一般論
 家では表情が無く、しゃべる言葉は「めんどくさい」などと否定的な言葉だけ。おむつ交換を促しても「いらぬお節介」と言われると涙が出る。介護者が穏やかに接すれば認知症の人も穏やかになるとか、ぼけても心は生きていると聞いてそのように心がけているが、父は少し違うようだと思う。
 こんな父だが、デイサービスのノートに、たまに「今日はいい笑顔が出ました」と書いてあると、まだ笑顔ができるんだと驚き専門職の対応はさすがと頭が下がる。

 *介護が生活の一部に
 今つくづく思うのは、介護が自分の考えや生き方を変えてくれたこと。介護がなければ楽だったかもしれないが、介護があったおかげで自分の人生は確実に豊かになった。いつまで自宅で看られるかわからないが、家族会での皆さんのアドバイスや、状況に応じて施設など専門職の助けも頂きながら、今では介護のない生活が考えられないようになってしまうほど、私の生活の一部になっている介護をこれからも続けるつもりでいる。(松江市 H)

☆寄稿 辛かったあの頃

 18年余の夫の介護生活でどの時期にどんなことが苦しく辛かったか振り返ってみたいと思います。(振り返るのも辛く哀しい)

 東京に住まいし、海外出張の合間にも国内の仕事をする生活を10年間つつがなく暮らし、とても明るい人でした。転勤になり、我が家のある出雲に帰ってから様子が変わり、自分から進んで人に会うことも少なくなりました。

*受診の難しさ
 長らく出雲を離れていたので・・・と、思っていましたが(本人は病気でもないのにと拒否するので受診までに時間がかかりました。)私も時間の経過とともに不安になり保健師の妹に相談し、内科に受診すると言って病院に連れて行きアルツハイマー病と診断されました。初めて聞く病名で「医師から治らない」と言われ、これからの指針も示されず、どうしたら良いのかもわからなくて、夫が可哀想で仕方ありませんでした。妹の紹介で全国組織の家族の会に早速入会しました。(島根県支部が始まったばかりの時でした)

*認知症に対する理解のなさ(孤立感)
 会社や家族の為に頑張ったのに定年を前に退職をしました。このころは世間もいまのように認知症(以前は呆け)についての報道も理解もなく寂しいものでした。

 最近は「近所の人にオープンにして理解してもらいましょう」と、言われますが誰もがすぐにオープンに出来るものではありません。たくさん苦しみ、悩み、迷い、そしてもう隠し通すことはできないと悟ったときにはじめて話せるようになりました。それでも「年のせいでしょう」とか「誰もそのような事はあるよ」と気休めを言われて無理解に苦しみました。呆け老人をかかえる家族の会の会報を読み自分だけが悩んでいるのではない、全国に仲間が沢山いると安心しました。

*サービスの少なさ
 家族の会の相談会に出かけ、週5日のデイサービスの紹介を受け施設に行くことができパートの仕事も続けることができました。ほんとうに地獄に仏とはこのことだったと思います。

 平成3~4年ごろは施設も少なく相談窓口もどこにあるのやら。無知と無理解で介護者は絶望のどん底でした。 

 平成5年に脳梗塞で倒れ寝たきりになってから精神的に楽になり平成12年度に介護保険制度がスタートし社会的に少しずつ理解が得られるようになって来ました。18年10カ月の介護生活の初めの4~5年が辛く哀しく、いま思い出しても涙が出ます。遠方の子供たちにも話せず一人で苦しみそして納得してからは気持ちが楽になり同じ介護者とつどいを開き介護保険のありがたさを痛感し感謝の気持ちで一杯です。(F)