私の介護 石田百代さん
その1
今日は私の介護体験をお話しするようにとのことですが、今、介護に携わっていらっしゃる皆さまの参考になれば幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。
私の姑は、現在九十七歳です。昨年六月から特別養護老人ホームに入所しています。(要介護4です)今は施設にお世話になっているので、在宅介護をしている頃よりも、精神的にも肉体的にもとても楽をしています。
そして、もうひとり実家の母ですが、九十四歳で今はひとりで暮らしています。こちらは認知症はありませんが、加齢に伴う筋力の衰えと以前に骨折をしているので歩くことがままならず、家の中をゆっくりとものにつかまりながらヨタヨタしながら歩いていますが、外出の際はステッキと私の介護が必要です。(要支援2です)週1回の通所リハビリと、これも週一回生活支援のためのヘルパーさんの訪問介護を受けています。私は週一〜二回、母は自分で食事も作っているので、母と一緒に買い物に行ったり、通院の際の介助をするために、同じ松江市内ですが実家に通っています。このように、両方の母の介護は私ひとりでやっています。
さて、前置きが長くなりましたが、私は認知症という言葉は、テレビ、本、新聞等での情報で、ある程度の内容は知っていました。
私の夫が二十三年前の四月に四十七歳の若さで亡くなり、このとき娘二人は長女が社会人一年生、次女は高校一年生でしたので、これから先どうしてよいかわからず、私自身オロオロするばかりで、しっかり者で気丈な義母に頼ってばかりでした。
十年前に県職員を引退して、毎日家で母と二人の生活がはじまってから半年くらいたって、母の様子が少しずつ変わっていくのに気づき、なんとなく「認知症」という病気を他人事ではなく本当に身近に感じるようになりました。
私が退職するまでは、家の中の家事全般から生活費の管理等一切のことをすべて母がひとりでやっていましたのに、だんだんと母の様子が少しおかしいなあと感じるようになり、「あの何でもきちんとこなしていた母がそんなはずはない」と私のなかではなかなか受け入れることができませんでした。
その2
その頃から、同じ話しの繰り返し、今言った事を忘れてしまう「もの忘れ」等がひんぱんに出るようになってきました。私は毎日気にしながらどうしたものかと悩んでいましたので、松江市の広報で知った保健所での「もの忘れ相談」に、母には黙って私ひとりで相談に出かけました。これが釜瀬先生との最初の出合いでした。その時、先生は「お話しを聞くと、お母さんの具合はちょっと心配ですが、ご本人に会ってみないと判断は出来ない」とおっしゃいました。それからまた半年位は気にしながら様子を見ていましたが、その頃母も自分でも少し不安になっていたようです。平成15年10月に思いきって「おばあちゃんもだんだん歳をとってきたから、一度健康診断のつもりで釜瀬先生のところに行ってみましょう」と受診を勧めました。母89歳。私62歳。この時からいよいよ認知症による介護との関わりが始まりました。私と母の二人三脚で歩んだ介護の日々をお話しいたします。
うせもの探し いくら探しても財布が見つからない。誰かに盗られたか、忘れてきたかもしれない。買ったものがないから、絶対に家の中にあるから一緒に探しましょう。と言って、何時も隠しておかれる所から探し始める。あちこち探した結果、広縁のテーブルの上に置いてある。上手に導いて、自分で見つけてもらい、自分のバックに入れてもらう。夕方「なくなったと思っていたのにちゃんとバックにあったわ」と、朝あれ程探し回ったことは覚えていない。
通帳の再発行 通帳を盗られないようにと隠していて、自分でどこに隠したかを思い出 せない。自分で郵便局に行って再発行の手続きを依頼して帰る。2週間で新しい通帳が届くからと言っても、また夕方から通帳探しが始まる。新しい通帳が届いたら「不安だからあんたが持っておいて」と預けられる。「年金証書など大事なものをしまっている引き出しにいれておくね」と確認して貰い一件落着。その後も夜になるとごそごそ探し物。それで預かっている場所に連れて行って確認して安心。この繰り返し。
本人の不安 探しものを再三するのを自分でも気づき「夜中に迷惑をかけてごめんね。私 は何をしてるのだろうか。不安でたまらんわ」と訴えられるので「探しものは一緒に探してあげるから」と安心させてあげる。大体夜になると不安になられ「迷惑ばかりかけていて情けないわ。養ってもらっていて申し訳ないわ。私は死んでしまいたいわ」などの言葉が出るようになる。私は「二人で暮らしているから、おばあちゃんがいなくなったら私は独りになるんだよ。その方がよっぽど淋しいわ。おばあちゃんがいてくれるから私も安心しているよ」と答える。この様な時には私自身も精神状態が穏やかでなく、ショックが大きくどうしてよいかわからず、涙が止まらなかった。
出来ることができると デイサービスから帰ってこられ、普段はあまりお話しはされない けどこの日は「今日はお昼ごはんの後片づけを手伝ったわ」と自分の方から話された。余程 印象に残ったのか嬉しかったのか分からないけど、こんなお話しが出来たことが私にとってもとても嬉しかった。その他、手仕事が好きなので雑巾を縫ったり、皆さんにあげる写真の封筒作りをするなど、今出来ることを見つけ自分の居場所がちゃんとあることで、デイサービスに感謝する。なによりも母の自信になったことが嬉しかった。
解説 認知症に気づくことは多くが「物忘れ」であることは一般的ですが、必ずしも記憶障害だけではないことが石田さんの文を読むとわかります。お母様はその「物忘れ」の中で自分のなかに現れている変化に気づき強い不安を訴えられています。その不安がうせもの探しになっていたのでしょうか。いずれにせよ、石田さんが常にお母様に寄り添っている様子が伺えます。
その3
泊まらせてもらって お風呂からあがって「おやすみ」と。しばらくしてからそっと居間に出てきて、「ここの人いる?私はここに泊まらせてもらっているので、帰ったら礼状を出さないといけないから、住所を紙に書いてちょうだい」「帰る時に払うお金を正雄さん(義父)からもらって来ていないのでお金を貸して」
息子が帰ってくる 私が風呂から上がってみると、母が玄関で「まだ若いもんが帰って来てこんから鍵をしてよいのか困った」「正雄(義父)さんは何処にいったの?。またパチンコでも行ったのかしら」夜中に起きて「長い間お墓まいりをしていないから今から行ってくるわ」「鶏に餌をやっておかないと。今日はやっていないわ」私が風呂に入っていると「明朝のご飯の用意はしてあるかね。何もなかったらどうしよう。子供が学校に行くのに間に合うかしら」
家に帰りたい 「北田町の家に帰りたい」と、夜中にバッグの中に下着をつめて、ネックレスをして「正雄さんが心配しているから北田町の家に帰りたい」ケアマネージャーさんから「演技者にならないといけない時があるよ」との指導を受けていたので、オーバーを着て荷物を持って、二人で夜の通りをひとまわり。我が家の表札を見せて「ああ帰った!ここに石田と書いてあるよ」と。それで安心して我が家に入る。またある時は「お義父さんが、今夜はここに泊めてもらってと今電話があったよ」「正雄さんが出られたかね。そんなら明日にしますか!」
百代さんはどこ? まだ最初の頃は顔を見て分かっていたが、隣に寝ている私と分からず「あんた家の人にここに泊まると言ってきたかね?」私は母の友達のようだ。夕食の準備をしていると「家でもお嫁さんが晩御飯を準備しておられるわ。いい嫁だよ」この言葉ではちょっと癒される。でもまじまじと私の顔を見て「百代さんはどこに行かれただろうか」「ここにいるよ。私が百代さんよ」「百代さんはもっと若いわね!」
次第にできなくなった だんだんと食事のしかたも変わってきた。同じものだけ全部食べてそれでお箸を置いて終わり。風呂も独りで入っていたのが、お湯の出し方もわからなくなり、トイレの場所が分からないし、流すことも出来なくなった。風呂もトイレも介助が必要になってきた。夕方からいつものように混乱がはじまります。二人だけの生活で傍に誰もいないことが、こんなにも不安で、怖くなってきたとは思わなかった。
私も限界に だんだんとこうした不安が大きくなって来た。いわば二人だけの密室状態で誰にも、今のこの状態を知って貰えないのではないかと思うようになった。ついに私も精神安定剤を投薬してもらうようになった。夕方から夜にかけての混乱と不安が始まる。がんばって相手をしてるが、私の方が限界になる。黙ってしまい、涙がとめどなく流れ、そのうち大声で泣いてしまう。こんな時に申し訳ないけどケアマネさんやスタッフのみなさんに頼ってしまう。携帯電話からの声を聞くと少し落ち着く。感謝感謝。
生活支援から入所へ このため生活支援を受け始めた。食事の仕方の介助。風呂の入り方。トイレの使い方。衣服の着脱などなどの指導をうけた。ショートステイも利用したが、現在特養に入所するに至った。自立歩行はできないので、車椅子での移動を含めて全介助となってしまった。面会に行くと名前は覚えてはいないが、目があうと表情がやわらぎ笑顔で迎えてくれる。優しい母だったので暴言暴力もなく、大変だった徘徊もしない楽な在宅介護と思います。今は毎日面会に通っているが、義務感からではなく反対に私の気持ちを落ち着かせ癒してくれる。母の笑顔が恋しくて、時々抱きしめています。いとおしくて本当に幸せを感じています。
余力を残して60%の介護 「介護は100%を目指すのではなく、60%の力で」「介護は鏡のようなもの。優しい気持ちで接したら、必ず優しい表情になります」「いつも相手の様子は自分を写している鏡と思って接してください」とは釜瀬Drから介護を通して学んだことばです。私は母の介護が出来ることに喜びを感じ、感謝しています。