至好回路雑記過去ログ2006.03


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▼2006/03/31 (金)

かみちゅ!対策室更新



▼2006/03/30 (木)

かみちゅ!対策室更新

DVD版最終回第16話感想UP



▼2006/03/29 (水)

かみちゅDVD8巻最終巻
今15,16話とコメンタリーまで見終えましたー
うー、終わったー
終わってしまったー

細かい感想は、また後ほど。
とりあえず、スタッフの皆様ご苦労様でした。


□鬼公子炎魔 続報2
月刊マガジンZで3号連続集中連載でだそうです
http://www.kodansha.co.jp/zhp/index.html




▼2006/03/28 (火)

今日はプチ神戸守祭り

I”s Pure <4> vertige【めまい】
脚本:大石哲也/絵コンテ・演出:岩永彰/作画監督島田俊彦

寺谷のいたずらで一貴が女湯に入って、伊織と鉢合わせというベタなシュチュエーションがあるんだけれど、ここの描写ががどうもあっさりめで、どうなんだろう。
ココはもっとあざといくらいわざとらしいカメラワークで女体を視姦すべきところだと思うのですよ、桂漫画的には。
そういうことをしないようにあえてやってるのかもしれない。
エロ分に関しては毎回ついてくる映像特典「一貴の妄想日記」で補完してくれってことなんだろうけど、原作ファン的には、どうなんかなーと思ってしまいます。

後半のカラオケボックスでの空気感とか、恋愛モノとしては上品なつくりなんだけど。


I”s Pure <4> vertige【めまい】
B000EBFOVK
ハピネット・ピクチャーズ 2006-03-24



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次は5/26発売予定

I”s Pure <5> declaration d'amour【告白】
B000F4LDCA
ハピネット・ピクチャーズ 2006-05-26


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□鬼公子炎魔 続報
掲示板の方で教えていただきました
http://www.discstation.co.jp/VSSHOP/cgi/DS_goods_item.aspx?ns=BCBA-2527

>監督:神戸守
>原作:永井豪
>脚本:吉岡たかを

>永井豪原作の「ドロロンえん魔くん」が本格ホラーOVA として登場!

「ドロロンえん魔くん」のリメイクなんだ、これ。
脚本は「エルフェンリート」でもいっしょに仕事した神戸監督の盟友・吉岡たかをということで、鉄板。
気になるのは以前インタビューでいってた「鎌倉三部作」にあたるのかどうか。
地獄界のプリンス・えん魔くんがお妃探しに鎌倉に降り立ってもおかしくないしなぁ、そこで角の生えた女の子と出会ったりするわけですよ、と今のうちに妄想。

参考

ドロロンえん魔くん - Wikipedia


ドロロンえん魔くん Vol.1
ドロロンえん魔くん Vol.1 永井豪 野沢雅子
東映 2003-06-21

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関連商品
ドロロンえん魔くん Vol.2
ドロロンえん魔くん Vol.3
ドロロンえん魔くん Vol.4


http://www.so-net.ne.jp/toei/arc/enma/index.html

ここで昔の作品のOPが無料で見れる。なつかしいなぁ
本放送は生まれる前だけど再放送で何度も見てるので、OPは良く覚えてる。

たぶんこの企画30代のおっさん向け企画なんだろうけど、なんでいまさらという気がしなくもない。
しかし、神戸監督のところに来る仕事は毎度脈絡がないよな・・・



▼2006/03/27 (月)

かみちゅ!尾道紀行 そのよん
今回で最後です。


神戸守 - Wikipedia
鬼公子炎魔 公式サイト
Wikiの作品リスト参照。
神戸守監督の次回作は鬼公子炎魔??

公式はプレオープンなので子細は不明。しかしWikiで既に作品リストに監督・神戸守になってる。
一応公式情報待ちということで。

あとWikiの神戸守の項目を久しぶりに見たんだけどのプロフィールが詳しすぎてびびった。作品リストも見たら自分が知らないのも2,3あったし・・・
これ、内部に詳しい人が編集してるとしか思えねー



▼2006/03/26 (日)

ゾイドジェネシス最終回によせてなんかいろいろ

一人の少年が、村を出て世界を知り、戦いを通して成長し、ついに世界を救う英雄となる、という少年向けの英雄譚をきっちりとした構成で、最後まで見事に書ききってくれたなぁ。
シリーズ始まって当初の期待を最後まで裏切らずに走り抜けてくれて、よかったよかった。

例によってエウレカと比較して書いちゃいますが、エウレカの対象年齢が中学生くらいとすると、ゾイドは小学校低学年から高学年あたりまで。
だからこそ、エウレカのようなちょっと突っ込んだ人物描写が出来ない。
またゾイドジェネシスは背景に戦争というのを結構うまく物語に組みこんでいるのだけど、人の生き死にや非情さを描けず、ジーンを絶対悪にして決着をつけてしまったのは、やはり子供向け故の限界ともいえて、その部分では、多少不満は残ってしまう。
ただ、子供向けだからこそ、こういう素直な英雄譚ができるし、強さや正義という少年的な願望を描けるのだと思うと難しいところではある。


ロボットって存在は、どんなに大人っぽく見せようとしても、結局は男の子の少年的願望そのままだと思うのですよ。
普通の大人の男がみんな、バイクや車が好きなのも、それが、ロボットの代りに少年的欲望を満足させてくれるものだからなんじゃないのかなと。戦車や戦闘機も基本はバイク・車と同じだからロボットを兵器として描いても、その裏には少年的願望が潜んでいるのでないのかなと。
で、エウレカ見ててつまんねなぁと思うのは、どんなに作画が良くてもニルバーシュに少年的願望を充足させてもらえないのよね。ドラマがどーとか関係なく。
(それはまあ,自分がロボットアニメに求めるものと、エウレカが作品として目指すものが違うからしょうがないんだけど。)

ゾイドジェネシスは、なんだかんだいっても玩具アニメとして正道だから、ムゲンライガーかっちょええーとちゃんと思えるもの。
それと最終話で、ムラサメにルージが乗れた理由が書かれるのだけれど、それまでゾイド適性がなかったルージが、ただ一体でもいいからゾイドに乗れることをブレードに願い、それにムラサメがルージに応えたというのには震えた。
こういう、少年と物言わぬ機械との関係というのはいいね、しびれる。
これもまあ、思春期前の少年を同じ年の男の子に向けて作ってるからこそ出来るんだろうけど。

自分は、正直な話、ロボットアニメにはそういう少年的願望の充足を最終的に求めてるわけで、エウレカとゾイドどっちをとるかといえばゾイドをとるのだけれど、やはりいいと大人なので、人物のドラマ的な深さとか、戦争・社会的な背景の弱い物語には満足できない。

個人的には、エウレカとゾイドジェネシスの中間くらいの作品が理想なんだよなあ。
ちょっと前に、ロボットアニメに満足できないっていうのは、こういうことなんだけど、そういう作品を作るのは、無理なのかなぁ。

あ、あと後半avexがレ・ミィとコトナの人気に気づいて開き直ったのには、微妙な気分だったけど、もし次回ゾイドをアニメでやる時は、最初からもっとうまくやれ!
つか、ゾイドはもっと色々可能性あると思うぜぇー
ここはひとつ「リリカルなのは」方式で、オタ向けにカスタマイズして2クールで一本つくってみたっていいじゃないか。
でなければ、表向き子供向けなのにバリバリ人死にの出る戦争モノだってやろうと思えば出来ると思うのだけどなぁ。
夢だけは広がるのだけれど、TAKARATOMYになって、ゾイドの行く末が心配だ。

以上、一年分の溜め込み吐き出し完了して、まとめる気もなく終わる。



▼2006/03/24 (金)

かみちゅ!尾道紀行 そのさん
まだつづきます



▼2006/03/22 (水)

かみちゅ!対策室更新
かみちゅ!尾道紀行そのに他



▼2006/03/21 (火)

かみちゅ!対策室更新

DVD最終巻発売直前記念 かみちゅ!尾道紀行 そのいち
ということで念願の尾道にいってきました!!



▼2006/03/18 (土)

ちょっと尾道いってきます。



▼2006/03/17 (金)

アニメ様の七転八倒第25回 脚本家の取材は難しい

アニメ様の価値基準が
作画>>演出>>>>>脚本
だからだと思ってた(←失礼だあ)

脚本がコンテの段階で大幅に変えられるというのは、アニメ業界では珍しいことではないそうで、脚本家によっては、無断でシナリオを変えられてへそを曲げて「脚本家ヤメル!」と言い出したり、コンテで大幅に変えられたために脚本のクレジットされることを辞退したりといったことや、最初から脚本を変えられるなら仕事を受けないという脚本家もいたりとか。
監督や演出家によっても、決定稿を変えない主義の人もいる一方で、脚本を叩き台とみなしてまったく無視する人もいる。
アニメ制作においてコンテが脚本を変える事は、作品をよりよくする上で、必ずしも悪しきこととはいえない一方で、下手にいじった結果、脚本で用意された伏線やキャラの感情の流れをコンテがだめにしてしまう、ということもあって、勝手に変えられることを良しとしない脚本家とコンテや作画を担当する現場との溝を生む原因にもなってしまうらしい。

まあ、こういう裏事情も部外者としては無責任におもしれーと思ってしまうわけで、演出と脚本のパワーバランスが作品にどう影響を及ぼしているのか、というのもスタッフウオッチャーとしては、ひとつの楽しみだったりします。
ただ、まあ、いえることはいい作品というのは、監督・演出と脚本がお互いを尊重して、いいパートナーシップを築けているもんなんじゃないのかなーと思うわけです。


アニメ様の七転八倒第第26回 美空ひばりと脚本や演出の評価

大概ににおいてファンやオタが書いたアニメの感想で「演出が良かった」「脚本が良かった」という場合、ほとんどは担当役職を直接誉めてるわけではなく、広い意味で使われているとおもってます。
アニメ様は、制作の諸事情を理解しすぎている分、担当役職の肩書きとしての「演出」「脚本」の意味に重きをおきすぎているのではないかと思います。
どっちの意味で使ってるかは、文脈で判断してくださいってとこでしょうか。
まあ、誉める時はいいんですが、貶すときに使うと「犯人探し」みたいになってくるので、現場のスタッフにはいい迷惑なのかなとは思うんですが。



▼2006/03/16 (木)

「魔法少女リリカルなのは」の作品構造とその影響について
にたくさんリンクを頂いたようで、ありがとうございます。



▼2006/03/15 (水)

魔法少女リリカルなのは A's ビジュアルファンブック
に原作脚本の都築真紀氏のロングインタビューがあるのですが、今回私が「リリカルなのは」について書いた文章は、このインタビューを読む前にだいたい出来てたのだけど、「魔法少女モノ」と「少年漫画」というカテゴライズにとらわれずジャンルを超えること自体が、意図的だったようで基本的に自分が感じたこととずれがなくて安心した。

あとこのインタビューでなるほどなーと思ったのは、

受け手が求めるものは「同じ味をもう一度」ではなく「同じ味で、もっと美味しくて量が多いやつ」

であるという話。
ただそれは非常に難しく、いつか限界がきてしまうし、それをやっても前作を美化するファンには「前作の方が良かった」と言われてしまう。
そこでA’sを作る上で

「同じ味、同じ技法を繰り返して、飽きてしまった皆さんにフェードアウトで見捨てられていくよりは、味付けを変えても、見た目を変えても、本質的に評価を受けた部分を最大限に、少し新しい形で見せられるように、そのためには変化を恐れず、本質を見失わず・・・というのが、作品を評価してくださった人への敬意の見せ方なのではないかと思っています。」

という意図の元に企画にあたったとか。

続編が失敗するときというのは、美味しさも量も変わってないか(前よりだめになってるのは論外)、変化を求めた結果、「本質的に評価を受けた部分」を見失っているか、のどっちかだもんな。
そういう意味でA’sは良く出来てたと思う。

これもインタビューの中で語られていたことだけれど、「リリカルなのは」は「魔法少女モノというジャンルに家族愛や友情のテーマを合わせるのではなく、魔法というソースをなくしても「女の子同士の友情物語」が成り立つように意図して作ったそうで、ここでも、「魔法少女モノ」というジャンルが「本質的に評価を受ける部分」が「魔法少女」というカテゴライズではないことが良く分かっていらっしゃる。

ということで、都築真紀氏が観客の気持ちを良く捉えていて、そこを見失わずに作品を構築するのに長けているのではないか、中々侮れない存在なんじゃないかと思えてきました。



▼2006/03/14 (火)

「魔法少女リリカルなのは」各話感想&分析

ということでやっとこ最終回までこぎつけました。
全然感想になってない気もしますが、これはすべて最後のまとめの文章を書く為の前ふりです。
まー、こんなことは既に語り尽くされてることなんかなーと思いつつ、自己満足でここまでやってしまいましたよ。いいんだ自分が楽しんでるんだから。
それと、あとで読みやすいようログ再編しときました。

第13話 なまえをよんで 公式あらすじ
脚本:都築真紀/絵コンテ:こでらかつゆき/演出:上坪涼樹/作画監督:奥田泰弘

奈落へ落ちようとするプレシアにフェイトは手を差し出すが、プレシアはその手を取らず、アリシアの亡骸とともに落ちていく。
そこになのはが現れ今度はなのはがフェイトに手を差し出し、フェイトはその手を握る。
それはフェイトが母を永遠に失う代わりに、なのはという友達を手に入れることを意味していた。

そして事件が終わり、フェイトの処遇が決まった後、フェイトはなのはとの束の間の再会を許され、フェイトはなのはの「告白」にたいする返事をする。

フェイト「来てもらったのは、返事をする為、君が言ってくれたことば、友達になりたいって
私にできるなら、私でいいならって。だけど私どうしていいかわからない。だから教えてほしいんだ、どうしたら友達になれるか」

なのは「簡単だよ、友達になるのすごく簡単・・・、なまえをよんで」

「なまえをよぶ」という単純な儀式。
その簡単な、友達同士なら当たり前の行為をするために、ふたりはお互いに大きな障壁を越えねばならなかった。
それゆえに、このシンプルな儀式が、胸に迫る。
しかし、ふたりはまた離れ離れの時をすごさねばならない。
初めて名前を呼び合えたふたりの、切なく暖かな束の間の逢瀬。
けれど、この逢瀬は、出会えて、友達になれた二人の関係が、今これからはじまっていくことを告げる祝福の瞬間に他ならない。

もし、なのはがいなければ、フェイトがなのはに出会っていなかったならば、母に拒絶されたフェイトは、自分の存在に、生きることに意味を見出せただろうか?
なのはがフェイトの名を呼ぶから、なのはの友達として、自分がいまここにいる意味を見出し、フェイトがなのはの友達でありたいと願い、なのはの名前を呼ぶから、フェイトはいまここにいたいと思える。
ただ、名前をよぶという行為が、母から存在をみとめられなかったフェイトにとって、大きな意味を持つ。
このときフェイトにとってなのはは「友達」という言葉の意味を遥かに超えた「全て」といっていい存在であったに違いない。


まとめ■「魔法少女リリカルなのは」の作品構造とその影響について


さて、全13話をなのはとフェイトの関係を中心に追ってみたが、この作品が、なのはとフェイトが友情を結ぶに至る過程が、かなりがっちりと構成されていることがわかる。
最終話の二人の逢瀬が感動的なのは、ここに至るまでの過程の積みかさねによるところが大きい。

では、13話という短い尺の中で、二人の友情に説得力をもたらしたものとは何だっただろうか。

初見時の感想で、同系統の作品として「魔法少女プリティ・サミー」をあげて、「魔法少女モノ」としての完成度の高さに言及して、賞賛したように「リリカルなのは」の物語の骨子は、少女アニメにおける友情もののパターンを良く踏襲している。
それは、なんらかの抑圧やコンプレックスをもったり、主人公と対立していたライバルキャラが、主人公との交流や助けによって心を開き、あるいは抑圧から解放されることで主人公との友情が生まれる、というものでなのはとフェイトの関係は、それにおおよそ当てはまる。
もちろんこの王道的黄金パターンがなのはとフェイトの友情を結ぶに説得力を与えていることに間違いないが、それだけでは、まだ何か足りない。

「言葉だけじゃ何も変わらない、伝わらない」そう言ったフェイトの心を変え、ふたりを結びつけたものは、何だったか。
それはフェイトに全力で戦いを挑んでいったなのはの行為そのものに他ならない。
フェイトはなのはと何度も戦いそして敗れることで、なのはの優しさと強さを知り、なのはの「友達になりたい」という「言葉」を信頼し受け入れることができるようになった。
戦いという儀式を通して他人だった二人は、お互いを知り、強い絆で結ばれることが出来たのだ。

この構図、この関係、実は何度となく、繰り返し見てきた黄金パターンだ。
そう少年漫画、特にジャンプ系の格闘マンガにおける、互いに拳を交わした敵同士に、友情が芽生え、仲間になるという、あれだ。
拳と拳で語り合うことによって生まれる友情。
なのはとフェイトの関係、友情は、女の子同士の友情というより男の子同士のそれに近いのかもしれない。
いや少年漫画的友情といったほうがいいだろう。
(注・ほんとの少年漫画では拳を交わすだけで言葉は必要ない、というところまで突き詰められているので、「友達になりたい」という言葉による告白がある分「なのは」それでもまだ少女モノしているのだけど)
「戦ったもの同士には友情が生まれる」、これは男の子にとって理屈を超えた真実である。
故に男性の目で見て「リリカルなのは」は少年漫画の見慣れたパターンであり、バトルを通すことで生まれたなのはとフェイトの友情、絆の強さには、有無を云わせない説得力がある。

バトルヒロインものというジャンルは、現在定番化しているひとつの形式ではあるが、その多くが、日常を脅かす敵がいて、その敵と戦う仲間との友情を日常を基盤にして描くというのが主流である。
しかし「リリカルなのは」はそこからはなれ女の子同士の友情を共闘ではなく、まず互いを戦わせることで描いてしまったことに「魔法少女アニメ」としての異質さがある。
前述したように初見時では「少女アニメのお馴染みの友情モノのパターン」に目が行き過ぎて気付かなかったが、「少女アニメ的な友情の物語」と「バトル系少年漫画的な友情の構造」の両者を兼ね備えていることがわかる。
なのはとフェイトの友情物語が有する無類の強度と説得力は、この二重構造の上に成り立っていたというわけだ。


さて、ここまでは作品分析、ここからはそれをどう受け止めるか、受け止めてしまった私自身の個人的問題なのであしからず。

詳述してきたように「リリカルなのは」はフェイトとなのはの友情物語として強度を持った傑作であることはまちがいない。
しかし「リリカルなのは」を見終わった後に、猛烈にフェイトがなのはのことを友情以上の感情を抱いているんではないかとい思えてならなかった。

なのははもちろんフェイトのことを友達として好意を寄せているのだろうというのはわかるのだけれど、それに対するフェイトのなのはへの感情は、もっと激しく強いのではないかと。
自分より強くて優しい存在が、あそこまで自分に真摯に向き合ってくれたことに対する信頼。母親に愛されなかったフェイトが欲しくてたまらなかったものをなのはフェイトに与えてくれる。
そして報われなかったフェイトの母への愛は、そそぐべき新たな対象を手に入れる。
事件を通してなのははフェイトにとって親友以上の特別な存在になってしまった。
最初はなのはの片思いだったものが逆転して、より強い感情をフェイトがなのはに向けている・・・・
さあもうこうなると止まらない。
フェイトはなのはのことをなんつーかもう狙っている、そうに違いない!
という妄想に取り付かれて、もうそういう目でしかみられない!

いや、もともと百合系には親和性が高かったし、そういうのも好きだったんで、フェイト×なのはで百合ってのは、別に自然(?)に受け入れられることがらなのだけれど、ここまで強い妄想に取り付かれたことはなかった。
いったい何がそんなに妄想をかきたたせるのか?
その疑問に答えが見つからないまま、次のA'sを見て、ドラマCDを聞いて、小説を読んでとしていたわけだが、その妄想は強化される一方。
そして、小説読了後「リリカルなのは」=「少年漫画」でもあるという結論に至った段階で、それがなぜなのかわかった。

もしかして、これが「やおい」ってやつなのか?と。

女の人が、ジャンプマンガでやおい妄想する理屈、友情が友情以上の感情に転化して読み替えてしまうというのは頭でわかっていただけで、理解はできなかった。
しかしジャンプマンガの構造に女の子キャラを当てはめた「リリカルなのは」を見ることで、気付けばそれを無意識に体感してしまっていたのではないかということに戦慄した。
こ、これか、と

かくして、「魔法少女リリカルなのは」ひとりのダメなオタクをさらにダメにしてしまったのでした。



▼2006/03/13 (月)

http://d.hatena.ne.jp/moonphase/20060311
>恒例の新番チェック。既に始まってる「しにがみのバラッド。」と、タイトル変更、OVA先行放送を含めると、全65本という史上最多の改編期となりました。


だそうで、ざっと目を通すだけで、原作付、続編第二期の作品が目に付きます。
ただその大多数が自分の興味を引かないものばかりなので、今からテンションが上がらない・・・


http://d.hatena.ne.jp/tobofu/20060312#1142129052
>すぐれた、アニメオリジナルの、ファンも一般人も巻き込むような企画が一本だけでもあればいいのだ。そのためにはもっと企画にコストをかけるべきだ。
その試みが成功した場合そのたった一本の影響力、波及力がいかに絶大なものであるか、は、過去の名作と認知されているアニメ群がすでに証明している。


あれかなー、そろそろ本当の意味での「ポストエヴァ」が必要な時期がきたってことかな。今のアニメ業界の様相をかき乱すくらい強烈なやつ。
ただそれも現在の本数の多さの中では埋もれてしまいかねないのだけど・・・

ここ数年、個人的にあたりの多い収穫期だったような気がして、アニメに十分満足してしまったかもーという意識が現在あります。
キッズ系ならデジモンとかボンバーマンジェッターズ、少女モノならコメットさん☆、どれみ、満月をさがしてなど、オタク系ならR.O.D、かみちゅ、リリカルなのは、高年齢向けで攻核機動隊SAC、プラネテス、妄想代理人その他原作をアニメで知っていい出会いをしたエルフェンリートとまほらば。
各ジャンルごとにそれぞれコレって作品があって、そこで今以上の作品を望むのは、また数年待たないと無理なんじゃないかという気がしている。

んでそれらジャンルの中で一番満足できてないジャンルはズバリ、ロボットアニメ。
一応キングゲイナーがあったけどアレはあくまで富野アニメだし、エウレカセブンはがんばってると思うけど、ロボットが主題にならないのでロボットアニメとしては全然満足できない、
「コレが見たかった」と絶賛して満足できるロボットアニメには未だ飢えがある。
リアル系でもスーパーでもどちらでもいいけど、リメイクや続編じゃない、「エヴァ」とか揶揄されない(笑)そんな新しいロボットアニメが見たいなーと。
できれば現代日本をテーマにしてね。



▼2006/03/11 (土)

「魔法少女リリカルなのは」各話感想&分析

■第12話 「宿命が閉じるときなの」公式あらすじ
脚本:都築真紀/絵コンテ:こでらかつゆき/演出・メカニック作画監督:斉藤良成/作画監督:金子誠 水上ろんど/エフェクト作画監督:友岡新平/総作画監督:奥田泰弘


敗北し、囚われたフェイトは、母、プレシア・テスタロッサが実の母親ではなく、自分が死んだ娘から作られた擬似生命の失敗作であることを告げられ、自失する。
ショックから目をさましたフェイトは、自分が如何に母親にしがみついていたかを思い知る。

「何度もぶつかった真っ白な服の女の子、初めて私と対等に、まっすぐ向き合ってくれたあのこ。何度も出会って戦って、何度も私の名前を呼んでくれた、何度も。何度も・・・」
「生きていたいと思ったのは母さんに認めてもらいたいからだった、それ以外に生きる意味なんかないと思っていた、それができなきゃ生きていけないんだと思ってた」


母親の存在がすべてだと思っていたフェイトは、自分を心配してくれるアルフの存在、そして何度も戦ったなのはの存在を思い出す。
そしてフェイトなのはの言葉を口にする。

「『捨てればいいってわけじゃない、逃げればいいってわけじゃない』」

「私達のすべてはまだはじまってもいない、だから本当の自分をはじめるために今までの自分をおわらせよう」

決意を固めたフェイトは、突入したなのはを追い、プレシアの元に向かう。
フェイトは自分がプレシアの本当の娘ではないことを知った上で、それでもプレシアが自分にとって母であることに違いなくそれを背負った上で、「フェイト・テスタロッサ」という存在をプレシアが受け入れてくれることに望みを賭ける。

プレシア「いまさらあなたを娘と思えというの?」
フェイト「あなたがそれを望むなら。それを望むなら、私は世界中の誰からも、どんな出来事からもあなたを守る。私があなたの娘だからじゃない。あなたが私の母さんだから。」


フェイトは母親からの愛情を欲していた、しかし、一方的に、娘だから愛を求めていたわけではなく、愛されるために母を愛そうとした。
実の娘ではないという事実を本人に突きつけられてなお、娘を失った母を哀れみ、プレシアが望むならプレシアを母として愛そうと誓う。
自分の出自を呪うことなく、それを受け入れ、自分を苦しめた母の支えとならんとするフェイト。
強く愛を欲しながら、彼女はどこまでも人を愛そうとする強さをもっているのだ。
しかし、プレシアはアリシアだけを娘として愛し、もう一人の娘が自分を愛してくれようとしていることに気付かない。
フェイトの母親への愛は拒絶され、永遠の片思いとなって奈落へと消えてしまう。


補足

プレシアが娘を失った経緯、娘の再生に賭けた狂気、娘として生み出したはずのフェイトがアリシアと似て異なる存在であることに気付き、フェイトの存在を忌み嫌ってしまったことの経緯などが、CDドラマおよび小説で触れられている。
アニメ版ではプレシアの内面に踏み込む描写がほとんどないので、プレシアがフェイトを拒絶する理由が見えないのは難点ではあるが、それをわかった上でみると、プレシア自身も哀れに映る。



▼2006/03/08 (水)

魔法少女リリカルなのはA’s サウンドステージ 03
B000E0VR0S

ということで聞きました。
TVのその後で、オールキャラでお花見。
今回のは登場キャラ大杉てまとまりがいまいちかなぁ。
その後の補完話はコミックの方でやちゃってたし、まあこんなもんかと思いつつ、それならそれでもう少しコメディ方面に走って欲しかったかも。

あー、オフィシャルだとこれが最後になっちゃうのかなー
未だに続編の発表があると信じて待ってるんですが。

□MEMO

魔法少女リリカルなのは A's ビジュアルファンブック
4883805158
晋遊舎 2006-03-10


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気付いたらもう発売直前じゃないか、あぶなく見落とすとこでした。



▼2006/03/07 (火)

「魔法少女リリカルなのは」各話感想&分析

■第11話 「「思い出は時の彼方なの」 公式あらすじ
脚本:都築真紀/絵コンテ:田所修/演出:草川啓造/作画監督:田中千幸/総作画監督:奥田泰弘

フェイトVSなのは最後の決戦。


フェイト「はじめて会った時は魔力が強いだけの素人だったのに、もう違う・・・速くて、強い。」

フェイト「直撃!?でも耐え切る、あの子だって耐えたんだから」

フォトンランサーを耐えしのいだなのはから逆襲で受けるデバインバスターを今度はフェイトが耐えてみせる。しかしさらに大技・スターライトブレーカーを叩き込まれてしまう。
フェイトは好敵手として認めたなのはに、完全な敗北を喫する。
母親との関係がすべてであったフェイトにとって、この戦いは、「自分に挑んできた好敵手」という存在との新しい関係であり、自分の信念と全力を賭けて戦ったその相手が、自分より強い存在であることを認め、受け入れる為の、「賭け」であり「儀式」であったかもしれない。
いずれにしろ、なのはとフェイトは戦いを通してすでにお互い「無関係」な存在ではないのだ。

・この回の戦闘シーンは実に面白い。
フェイトのアップからカメラがフェイトをなめつつ、引きながらぐるっと後ろ回り込んで、その遠く先にいるなのはと対峙するカットは秀逸。
カメラ動かしまくりの作画演出のうまさもさることながら、小技を応酬しバインドで相手を動け無くして大技を叩き込むなど、派手なだけでなく攻防の緊張感もあってとにかく見ごたえがある。



▼2006/03/06 (月)

トップをねらえ2! 第5話

AT-X先行放送でみました。
今まで一話完結で話が収拾されてたのが、今回は次回最終回に続く、になってしまったので、ドラマ的なところは次回に持ち越しなので物語的には、あまり盛り上がらず。

正直この作品、もはやキャラとかドラマとかどーでもよく、「世界観と設定」のみで楽しんでるかなーと、いうのが正直なところです。

今回一番興奮したところは「ブラックホール・エグセリオ」ってあれのことかーってとこですから。

あと公式のトップをねらえ2!大百科Webアーカイブでバスターマシン7号の設定とか、今までトップレスが「宇宙怪獣」と思って戦ってた存在の経緯とか、設定周りが解説されてるんだけど、これが、かつてのめり込んだ「トップをねらえ!」の胡散臭いおもしろSF設定のその上に、さらに色々付加されているところが面白いわけで、トップをねらえ」をきっかけに「相対性理論」とか「量子力学」の本を読んじゃったりした人間には、たまらなかったりするわけですよ。
ノノがヱルトリウムの次世代で物理法則書き換えてるのかー、というところにもう大興奮です。


トップをねらえ2! 5
B000E6G112 鶴巻和哉 福井裕佳梨 坂本真綾

バンダイビジュアル 2006-03-24


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▼2006/03/03 (金)

「魔法少女リリカルなのは」各話感想&分析

■第10話 「それぞれの胸の誓いなの」公式あらすじ
脚本:都築真紀/絵コンテ:田所修/演出・作画監督:中山岳洋/総作画監督:奥田泰弘


時空管理局の追跡と、プレシアに抗議し追放されたアルフから事情を聞くことで、フェイトのおかれた状況を知ることになるなのは。

フェイト「だけど、それでも私はあの人の娘だから」

なのは「ただ捨てればいいてわけじゃないよね、逃げればいいって分けじゃもっとない。
きっかけは、きっとジュエルシード。だから賭けよう、お互いの持ってる全部のジュエルシードを」



アルフが自分を心配してくれること、なのはが自分に助けの手を差し伸べようとしていること、それを理解した上で、それでも彼女は、まだジュエルシードを収集すれば元の優しい母親に戻るという希望を捨てきれずにいる。
フェイト自身も母親の異常さには気付いているし法に背いていることも知っている、それでも、彼女にとって自分がプレシアの娘であることは避けることの出来ない現実であり、母親の望みをかなえようとするのもまたフェイト自身の意思で選んだ道である以上、簡単に降りられないし、降りるわけにはいかない。
なのはがジュエルシード集めを自分のこととして責任を全うすることを選んだように、フェイトも根が生真面目で責任感と意志が強いのだ。

フェイトを止める為には、フェイトと友達になりたいといったなのはの思いの強さが、フェイトの意思と目的に負けないことを、なのはがフェイトの「力」になれることを、言葉だけでは伝わらない「強さ」を示さなければならない。
その為になのははフェイトに戦いを挑む。



▼2006/03/01 (水)

「魔法少女リリカルなのは」各話感想&分析
■第9話 「決戦は海の上でなの」 公式あらすじ
脚本:都築真紀/絵コンテ:こでらかつゆき/演出:上坪涼樹/作画監督:友岡新平

海に眠るジュエルシードに魔力を叩き込み無理やり覚醒させようとするフェイト。フェイトの自滅を待つようクロノに言われるが、それを無視して、フェイトを助けに飛び出るなのは。
なのははジュエルシード封印のためフェイトに魔力を分け与え、フェイトも戸惑いながら、なのはの協力を受け入れ、ジュエルシードを封印する。
リンディ提督との約束を破ってフェイトを助けるために飛び出したなのはは、そうまでしてフェイトを助けようとする自分の思いについて自問しながら答えにたどり着く。

ああそうだ、やっとわかった。私、この子と分け合いたいんだ・・・

悲しい気持ちや、さびしい気持ちを抱えている子に必要なものは、優しくされたり、だいじょうぶ?と言葉をかけてもらうことではなく、いっしょにその気持ちを分け合うことの出来る存在がそばにいてくれること。
今フェイトに必要なもの、なのはがフェイトに対してできること、さびしい目をしたフェイトを放って置けなかったその理由、その答えを見つけたたなのはは、「告白」する。

「友達になりたいんだ」

フェイトの事情をまだ知らないなのはのこの思いは、少なくとも、この時点では、まだ一方通行の「片思い」でしかないかもしれない。
しかし、何度となくぶつかり、今また自分を助けてくれた相手からの「友達になりたい」という「言葉」を伝えられたフェイトのなかで、目の前の白い防護服を着た少女の存在は、初めて出会ったときと違うものとして映ったに違いない。


・結界内に転送されたなのはが空中落下しながら変身の呪文を唱えるところのカッコよさ、デバインバスターフルパワーの魔法エフェクト描写の派手さなど演出も過剰になっていくが、これがドラマのテンションが高まっていくのと歩調を合わせいて、見ていて非常に気持ちい。
・今回、ユーノとなのはのラブ展開とか、クロノとユーノがなのはのをめぐってという展開を匂わせるシーンがいくつかあるんだけど、結局その後一向にそういう方向に向かわない。
いや結果的にそれはなくて正解なのだが。